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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Never born, Never died: only visited this planet earth between December 11, 1931 and, January 19, 1990.

永遠に生まれず、永遠に死なず、ただこの惑星に1931年12月11日から1990年1月19日の間いた。

バグワン・シュリ・ラジニーシの墓碑銘。バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh、 和尚/オショウ;Osho)、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドの宗教家、神秘思想家。チャンドラ・モハン・ジャインとして、インドのクチワダに生まれる。1960年代にインド各地で講演するようになると、アチャリヤ・ラジニーシ(ラジニーシ)として知られるようになる。「ラジニーシ」は「月の王」を意味し、生来の名前である「チャンドラ」(月)に由来する。1970年代からは、バグワン・シュリ・ラジニーシとして知られる。1988年、ラジニーシの名前を廃し、その後はたんにOshoとして知られることを望む。日本語では漢字による表記を望んだが、本項では一般名詞の「和尚」との混同を避けるために「ラジニーシ」と表記する。一般には宗教家または精神的指導者と見なされるが、従来的な通念をもって語ることは難しく、みずからは特定のカテゴリに分類されることを望まなかった。数々の講話のなかで、禅を含め古今東西の宗教性の源流や注目すべき人物について語りながらも、因習的もしくは組織的な宗教についてはその弊害を強調し、それらを純粋な宗教性の追求と区別した。初期においてはヒンディ語、のちには英語によって行われた講話の数々は、録音と録画によって記録されるとともに、多様な言語に翻訳され、膨大な数の本として出版された。法句経/般若心経/金剛般若経をはじめとする仏典、碧巌録などを出典とする禅の逸話、ティローパやアティーシャなどチベット仏教の比較的に知られざる源流を創始した人物の言葉、インドに伝わる112の瞑想的技法の精髄を詩文として伝える「ヴィギャン・バイラーヴ・タントラ」、ウパニシャッド、パタンジャリのヨーガ・スートラ、老子や荘子の言葉、スーフィーの物語や逸話、聖トーマスによるものを含む福音書、ピタゴラスの金言集、ニーチェの『ツァラストラはかく語りき』などを取り上げた講話のシリーズのほか、弟子たちや報道陣からの質問に答えた講話のシリーズ、初期における弟子たちとの間での親密な対話を収めたシリーズなどがある。講話は多大なユーモアを伴い、たくさんのジョークが含まれている。これらの講話によって多様なトピックを扱うが、その多面性ゆえに、その内容を簡単にまとめたり、固定した教義を引き出したりするのが難しい。便宜的な要約として、ラジニーシは、頭または心の機械的な動きや条件付けに縛られた「マインド」(mind)からの解放と意識の「目覚め」(awakening)を説き、「瞑想」(meditation)の道を示したというように言うこともできるが、これらの言葉が意味するところを理解するには体験もまた必要である。ラジニーシは同一のトピックを異なる観点や文脈をもって扱い、表面的に矛盾した見解を提示することも多く、聞き手の注意が求められる。ラジニーシは、古来から伝わる瞑想的な技法について紹介および解説するとともに、現代人に向けて新しい瞑想の技法を編み出し、西洋的なセラピーのテクニックも導入した。ラジニーシの周辺には、彼を慕う人たちのコミューン的な状況が生まれ、その状況のなかで、各種の瞑想的な技法、心身統合的セラピー、音楽をはじめとする多彩な芸術活動が営まれた。ラジニーシの講話の多様性を反映して、ラジニーシの周辺で起きた精神的な追求の背景も多様であり、東洋に伝わる古来の技法に基づくもの、禅、タオイズム、タントラ、スーフィーなどの流れをくむもの、西洋的なセラピーやヒーリングのアプローチに瞑想的な性格を加えたものなどが含まれる。このコミューン的なムーヴメントとそのなかで展開された多彩な活動の特徴として、それはラジニーシから内的に触発された多様な人々の創造性の爆発として生じた。コミューンの運営や出版に関わる領域では一定の組織体制を整えることが必要とされたが、これは精神的な権威とは見なされず、組織または団体としてのひとつにまとまった体制を備えることはなかった。ラジニーシの周辺で生じた多彩な活動は、こうした集合的なダイナミズムのなかで、発展あるいは衰退した。その中心となったのは、ラジニーシがみずから拠点とした場所としてのインドのプネー(1974~1981および1986~1990)、およびアメリカのオレゴン州に建設されたラジニーシプーラム(1981~1985)だが、ラジニーシを慕う人たちの活動は世界的な広がりを見せた。ラジニーシは、因習的な宗教や社会的な条件付けに対する批判と既存の価値観をくつがえす発言により、多くの人たちを惹きつけると同時に多くの反発を招いた。ラジニーシの周辺で生じたコミューン的な志向の強いムーヴメントも同様である。ラジニーシは、ラマナ・マハルシ(ラマナ・マハリシ)、ラーマクリシュナ、ジッドゥ・クリシュナムルティ、ゲオルギイ・グルジエフとの比較において、みずからの姿勢について、次のように語った。

オウム真理教の事件があって以後、日本では宗教特にスピリチュアルな思想は怪しいものだという風潮が広がりました。確かに宗教というものは怪しい部分も含んでいるのですが、人間の精神というものは理屈だけで割り切れるものでもありません。バグワン・シュリ・ラジニーシ(彼はOshoとして知られることを望んでいましたが)は、星の数ほどいた20世紀の神秘思想家たちのなかでも、かなり重要な人物です。彼自身がいかなる宗派にも属さずに、因習的もしくは組織的な宗教についてはその弊害を強調するというスタイルを取っていたので、彼の思想を一概に述べるのは非常に難しく、禅を含め古今東西の宗教をごちゃ混ぜにした説法を説きました。思想と同じく彼が広めた瞑想法も、古くから瞑想と西洋のセラピーを融合させ、禅、タオイズム、タントラ、スーフィーなどを源流とした心身統合的セラピーを作り上げました。さて、このラジニーシはどのような人物であったのかと言いますと、生まれは1931年12月11日、インド北部の小さな田舎町クチワダで、生後に作られたインド式占星術のチャートによると7歳で死ぬ可能性が強いということで、これを避けるため、両親はこの子を母方の祖父母のところに7歳になるまで預けられ育ちました。生来の反逆的な精神の持ち主として、4歳のころから祖父を含めた大人と議論をし、みずからの主張を通していたそうです。納得できないことを受け入れることはなかったと言われ、「どうして小さな子供の時からそんなに勇気があったのですか?」という質問に対して、のちにラジニーシは「イノセンス(無垢)であれば勇気はいらない」と答えています。ラジニーシは、反逆的な少年時代と学生時代を送った後、大学で哲学を学び、決定的な意識の目覚めもしくは悟り(enlightenment)に至ったのは1953年3月21日とされています。ラジニーシはジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演をし、宗教性に対する斬新な洞察とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判が賛否両論をまきおこしました。社会的な条件付けや心理的な抑圧の弊害に関する指摘や性に対するオープンな姿勢は、既存の価値観に対する脅威とも受け取られ、「セックス・グル」というような異名をもってマスコミに取り上げられるようにもなりました。また、ラジニーシは、古来から伝わる瞑想の技法の紹介にあたるとともに、もっぱら静的なものである伝統的な技法のほとんどは現代人がいきなりするには適さないものであるとし、呼吸への働きかけや身体の自由な動きや発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、インド各地の「瞑想キャンプ」にてそれらを紹介しました。これが後に世界的に広まっていくことになり、ラジニーシはヒンディ語に加えて英語でも講話するようになりました。1981年、ラジニーシはアメリカに移り、彼を慕う人たちは、まもなくオレゴン州に巨大なコミューン、「ラジニーシプーラム」を建設し、ひとつの実験都市として多大な注目を集め、ラジニーシプーラムは正式に市として認められ、5千人の住民を擁する町としての自治体制とインフラを備えるに至りました。この巨大なコミューンの建設と運営は、ラジニーシを慕う人たちの自主的な労働と貢献によって進められたものでしたが、その過程では、ラジニーシの意図とは無関係のところで、内部的な組織化や確執が生じることは避けがたかったようです。そして、かつてのイエス・キリスト一派がそうであったように、ラジニーシプーラムでは、その運営に携わる一派がラジニーシの意図とは無関係に内部的な権力を志向するようになりました。1985年、その主導者であるシーラ(Anand Sheela)らが、背任・横領・殺人未遂を犯した後にラジニーシプーラムから姿を消すと、ラジニーシは逮捕され国外追放されました。アメリカ政府との確執の結果、ラジニーシは、世界各国の政府および既成宗教から危険人物と見なされ、テロリスト同然の扱いを受けるようになりました。各国を転々とした後、1986年にインドに戻り、ムンバイにて、朝晩の講話を始め、数ヵ月後には以前のプネーのアシュラムに戻りました。世界中からラジニーシを慕う人々がふたたびプネーを訪れるようになり、アシュラムはコミューンとしての活況を帯び、多彩な活動が展開されるようになりました。1989年4月12日をもって講話を打ち切りましたが、9月からは、彼を慕う人たちの前に姿をあらわし、瞑想をともにするようになりました。ラジニーシは1990年1月19日に死去しました。最初は優れた指導者(グル)だった人が、組織が巨大化するにつれて、思想的に腐敗していった例をいくつも挙げることが出来ますが、ラジニーシの場合は比較的マシな方でした。アメリカでの逮捕は、思想犯としてラジニーシを罰し、あたかも凶暴な集団であるように演出してラジニーシプーラムを崩壊に導こうというアメリカ政府の意図があったとも言われています。何と言ってもキリスト教からすれば、彼らは完全な異教徒ですから放っておくというわけにもいかなかったのでしょう。ラジニーシの講話録は日本語にも多数翻訳されており、簡単に読むことが出来ます。また講話の映像も数多く残されており、これも比較的簡単に見ることが出来ます。

OSHO: Baby, My Whole Work Is to Confuse You
https://www.youtube.com/watch?v=xggTJCCxFss
OSHO: "Now-Here" All the Time
https://www.youtube.com/watch?v=wCKva76JpGE
OSHO: Behave as if You Are the First Here
https://www.youtube.com/watch?v=Y8gtLtaNTwo
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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