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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Good morning.

おはよう。

ウィリアム・タフトの最期の言葉。ウィリアム・ハワード・タフト(英語: William Howard Taft, 1857年9月15日 - 1930年3月8日)は、第27代アメリカ合衆国大統領および第10代連邦最高裁判所首席裁判官。両方の職を務めた唯一の人物である。1857年にシンシナティの名家タフト家に生まれ、「ビッグ・ビル」は1878年にイェール大学を卒業、1880年にシンシナティ・ロー・スクールを卒業した。彼は様々な地方の法律職を経験し、1887年にオハイオ州最高裁判所に勤務する。1890年、タフトは合衆国訟務長官に任命され、1891年には第6連邦巡回区控訴裁判所判事に任命される。1900年、ウィリアム・マッキンリー大統領はタフトをフィリピン民政長官に任命した。1904年にセオドア・ルーズベルト大統領はタフトを陸軍長官に任命した。ルーズベルトは当時のタフトを政治的に近い位置にいると考え、自らの後継者に指名した。現職大統領と共和党の支援の波に乗り、タフトは1908年の大統領選で圧勝した。最初かつ唯一の任期でのタフト大統領の国内課題は独占禁止、官公庁の改革、州際通商委員会の強化、郵政業務の改善および憲法修正第16条の通過に強調された。対外政策では自ら「ドル外交」と呼んだ手段でラテンアメリカおよびアジアの発展途上国の経済発展を促進しようとした。しかしながら、有権者は彼から遊離し、二期目を目指した1912年の大統領選では大敗し再選に失敗した。1857年9月15日にオハイオ州シンシナティ近郊に生まれる。母親のルイーザ・トーリーはマウント・ホリヨーク大学の卒業生であった。父親のアルフォンソ・タフトはピーター・ローソン・タフトの息子、ロバート・タフト・シニアの子孫であり、著名な共和党員であった。彼は1839年にシンシナティで弁護士を開業し、ユリシーズ・S・グラント大統領の元での陸軍長官を務めた。ウィリアム・ハワード・タフト国立歴史史跡は、タフトが少年時代を過ごした家である。彼の生家はオリジナルの外観に復元されている。内部の4つの部屋は、タフトの少年時代の生活を反映した展示がなされ、2階にはタフトの人生を強調する展示品が公開されている。家族の多くと同じく、タフトはウッドワード高校に通い、ニューヘイヴンのイェール大学に進学した。イェールで彼はライノニアン・ソサエティとスカル・アンド・ボーンズに加わった。スカル・アンド・ボーンズは1832年に彼の父親が共同して結成した秘密結社であった。彼はまた、プサイ・ウプシロンのメンバーでもあった。タフトはその体躯から「ビッグ・ラブ Big Lub」の愛称が与えられたが、大学の友人は「オールド・ビル Old Bill」の愛称で呼んだ。彼は生涯を通してその体重に関する嘲りを受けた。フィリピン民政長官時代にタフトはワシントンD.C.に「今日は乗馬を行ったが、良い感じであった。」との電報を送った。陸軍長官のエリフ・ルートはこれに対して「馬はいかがでしたか?」との返信を行っている。1878年、タフトは121名中2番の成績でイェールを卒業した。卒業後はシンシナティ・ロー・スクールに入学し、1880年に法学位を取得した。在学中に彼は地方紙「The Cincinnati Commercial」で働いている。オハイオ州で法曹界入りした後、タフトはハミルトン郡の検察官に任命された。1882年には内国歳入局の徴収官に任命される。タフトは1886年にシンシナティで長年の恋人であったヘレン・ハロンと結婚した。1887年にはオハイオ州高等裁判所判事に任命された。1890年、ベンジャミン・ハリソン大統領はタフトを訟務長官に任命した。任命当時の年齢は32歳で、2010年1月現在最年少の訟務長官である。1891年には新設された第6連邦巡回区控訴裁判所判事に任命される。1892年3月17日に上院の承認を受け、同日就任している。1893年頃、タフトはピッツバーグ・レダクション社(現在のアルコア)のアルミニウム処理技術に関する複数の特許に関して有利な判決を下した。同社は1903年に当事者と和解し、短期間アメリカ合衆国における唯一のアルミニウム供給企業であった。同社によるアルミ市場の寡占に関してタフトはアディソン・パイプ・アンド・スチール社対アメリカ合衆国(1898年)において意見を述べている。1896年から1900年までタフトは裁判官を務めると共に、シンシナティ大学法学部の教授および初代学部長として勤務した。1900年にウィリアム・マッキンリー大統領が、米西戦争の結果譲渡されたフィリピンの文民政府組織委員会の長にタフトを指名した。1901年から1904年までタフトは、フィリピンの初代知事を成功裡に務めた。1904年には、セオドア・ルーズベルト大統領がタフトを陸軍長官に指名した。陸軍長官時代に訪日し、その際には桂・タフト協定と呼ばれる日米間の合意の成立に関わった。セオドア・ルーズベルトは大統領職を二期務めた後に、1908年の大統領選出馬を辞退した。代わりに、彼は次の共和党大統領候補としてタフトを指名した。ルーズベルトの支援でタフトは民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破った。タフト政権下では、ルーズベルト前政権の方針を引き継ぎながらも、ドル外交と呼ばれる経済力を背景とした武力を伴わない平和的な外交を目指した。その一環として東アジアでは門戸開放通牒の原則に従い、列強の対中侵食を抑えつつ、中国権益の平等的な分配を目指したが、かえって列強の反発を招いて頓挫した。また、中米地域でも欧州諸国の資本を排除して情勢の安定を図ったが、結果的にアメリカ自身が武力介入をわざるを得なくなり、かえって情勢が不安定となってしまった。タフトは大統領職を通じて、共和党のリベラル派(その多くはルーズベルト前大統領の政策に従い続けた)からの異議と争った。進歩的な共和党員は、公然と1910年の議会選挙および1912年の共和党大統領予備選挙でタフトに挑戦した。タフトが共和党指名を勝ち取った時、彼らは、本選挙でタフトに対抗するために新党(アメリカ進歩党または革新党、別名「ブル・ムース」)の結成と対立候補としてセオドア・ルーズベルトの擁立を計画した。ルーズベルトの進歩党からの立候補は共和党員の投票を二分し、民主党候補ウッドロウ・ウィルソンの勝利を招く結果となった。公職を退いた後、タフトは学術および調停、そして平和執行連盟(英語版)を通じての世界平和の追求に時間を費やした。第一次世界大戦後の1921年、ウォレン・G・ ハーディング大統領によってタフトは連邦最高裁判所の首席裁判官(最高裁長官)に任命された。在任中は法廷をより効率的に機能させるために、最高裁判所が全国に重要な事件に先行を与えることができる1925年のジャッジ法の成立を主張。死去直前の1930年まで、最高裁長官を務めた。

ウィリアム・タフトは桂・タフト協定で有名な、第27代アメリカ合衆国大統領です。桂・タフト協定とは、日露戦争中の1905年7月29日に日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中来日したアメリカ特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた協定で、米国は韓国(大韓帝国)における日本の支配権を確認し、日本は米国のフィリピンの支配権を確認しました。この協定とポーツマス条約により、列強のすべての国が大韓帝国に対する日本の支配権を認めたこととなり、大韓帝国は事実上日本の保護国となりました。この協定は、現代の大韓民国においても、韓国の生存および主権問題に関して、アメリカがいかに信頼することができない国であるかの実例としてしばしば用いられています。その後タフトはアメリカ合衆国大統領となり、桂太郎は日本の内閣総理大臣となり、お互いに位を極めました。大統領となった後のタフトは自ら「ドル外交」と呼んだ、ラテンアメリカと東アジアに資本力を背景に対外進出を図る外交政策を推進しました。特にラテンアメリカでは、欧州に対して行っていた対外債務をアメリカに借り換えさせることで、その国の市場を強引に開かせようとしたため、米国政府と米国企業が自国の市場を開放させるために資本力、軍事力を利用していると軽蔑的に理解されていました。タフトの「ドル外交」は現在のアメリカのグローバリゼーションに似ているかもしれません。タフトは重商主義により、平和的に門戸開放を行おうとしましたが、列強の対中侵食を抑えて中国権益の平等的な分配を目指したことは、結果として列強の反発を招き、中米地域での欧州諸国の資本を排除は、最終的にアメリカ自身が武力介入をわざるを得なくなり、かえって情勢が不安定となりました。タフトは大統領を辞めた後も、世界平和のために精力的に活動を行い、1921年連邦最高裁判所の首席裁判官(最高裁長官)になり、死去直前の1930年まで務めました。タフトに関する小話として、彼は代大統領中最大の巨漢であり、平均して300ポンド (140kg) 以上の体重がありました。ホワイトハウスのバスタブに体がはまり込み、出られなくなったため、ホワイトハウスのバスタブがより大型のものに取り替えられたという逸話もあります。また、1910年に大統領としてMLBの始球式を初めて行った人物であり、ワシントンDCにある地元球団『ワシントン・セネタース』の開幕式で行われました。これは、当時太りすぎのタフトを見かねた側近が、タフトに運動をさせようとして野球での始球式を思いついたことがきっかけと言われており、これ以降歴代の大統領が、同球団の開幕式で始球式を行うことが恒例行事となりました。実は記録に残っている最古の始球式は1908年11月22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式とされており、その起源は日本にあります。このようにタフトは、妙な点でも日本と関係のある大統領でした。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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