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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

( 譫妄状態の中、副大統領ジョン・タイラーに向かって)

Sir, I wish you to understand the true principles of government. I wish them carried out. I ask nothing more.

閣下、あなたが政府の真実の原則を理解していることを願います。私はそれらが実行されることを願います。他に尋ねることはなにもありません。

ウィリアム・ハリソンの最期の言葉。ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(英語: William Henry Harrison, 1773年2月9日 - 1841年4月4日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家で、第9代アメリカ合衆国大統領である。1811年のティピカヌーの戦いでの勝利で名声を獲得したため、「ティピカヌー」あるいは「オールド・ティピカヌー」の愛称で呼ばれた。他の多くの初期の大統領と同様に、バージニアのプランテーション所有者だった。68歳で大統領に就任したもの、在任期間わずか1ヶ月で死去した。また、アメリカ独立宣言の前に生まれた(つまり生まれながらの合衆国市民でない)最後の大統領であった。1773年2月9日にバージニア州チャールズシティ郡のバークレー・プランテーションで生まれた。ベンジャミン・ハリソンとエリザベス・バセット夫妻の7人の子供の末子で、3番目の息子だった。一家はバークレー・プランテーションでも著名な政治家一家で、父親は大陸会議で独立宣言へ署名を行い、1781年から84年までバージニア州知事を務めた。兄のカーター・バセット・ハリソンはバージニア州選出下院議員だった。1787年、ハリソンは14歳でハンプデン=シドニー・カレッジに入学した。彼は1790年まで同校で学び、ラテン語に精通し、基礎的なフランス語を習得した。学校で宗教復興の動きが起こり、父親は彼を退学させた。その後サウサンプトン郡の学校で短期間学び、そこで奴隷制度反対のクエーカーとメソジストに関わるようになったといわれる。奴隷制度を支持していた父親は腹を立て、ハリソンをフィラデルフィアに移させた。フィラデルフィアでハリソンはロバート・モリスの家に下宿した(そこで得られる医学的訓練のためだったといわれる)。1790年にペンシルベニア大学に入学、ベンジャミン・ラッシュ博士の下で内科を学んだ。ハリソンが彼の伝記作家に説明したように、彼は勉学を楽しんではいなかった。フィラデルフィアに着いて間もない1791年に父親が学費も残さずに死去したため、ハリソンはモリスの元に置き去りにされた格好になった。18歳の時、ハリソンは陸軍に入隊しオハイオ州に派遣された。ハリソンは白人の西部侵略に反発するインディアン部族連合軍を撃破。米英戦争でもイギリスとショーニー族の連合軍に勝利し、この活躍で白人社会で一躍国民的英雄となった。その後、ハリソンは政治家に転じ、1840年アメリカ合衆国大統領選挙でホイッグ党から立候補。当時のアメリカ大統領選挙は現在と異なり、候補者が選挙活動をすることを潔しとしない風潮があった。しかしハリソンはこの慣例を破り、派手なパレードや華麗なパーティーを大々的に開き、政治的発言は一切禁じた上で、自身の「戦争の英雄」というイメージを有権者に浸透させるのに成功した。ハリソンが就任宣誓を行なった1841年3月4日は非常に寒く風が強い日だった。しかしハリソンはコートを着用せず、ほぼ二時間近いアメリカ史上で最長の就任演説を行った。これでハリソンは風邪を引き、それで肺炎へこじらせ、1ヶ月後に死去した。ハリソンは在職中に死去した初の大統領であり、また任期が最短(31日)の大統領である。ハリソンの死去に伴い副大統領ジョン・タイラーが大統領に昇格した。

ウィリアム・ハリソンは、アメリカ合衆国大統領の最短任期記録(31日)の保持者です。この記録は今後も中々破られることはないでしょう。また、ハリソンの孫、ベンジャミン・ハリソンは1889年に第23代大統領に就任したため、アメリカ史上ウィリアムとベンジャミンは唯一の祖父と孫で大統領に就任した例でもあります。1800年にハリソンは新しく作られたインディアナ準州の知事となり、アメリカ植民地政策の拡張のために、インディアンの土地に対する所有権を確保しようとしました。ハリソンはアメリカ・インディアンと多くの土地の割譲に関する条約交渉を行い、1809年9月30日のウェイン砦の条約で完結させていました。それに激怒したショーニー族の酋長テカムセの呼びかけで、インディアン部族同盟が蜂起しテカムセの戦争が始まりました。この戦争は一般的に1811年のティピカヌーの戦いで終わったとされていますが、この闘いを指揮したのがハリソンでした。ハリソンはティピカヌーの戦いがテカムセの同盟に致命傷を負わせたと主張し、ハリソンはこのことで、「ティピカヌー」という渾名を貰いました。テカムセはさらに抵抗を続け、1812年に米英戦争を始めると、テカムセはカナダのイギリス軍に味方しましたが、ハリソンはこの戦いでも勝利し、一躍アメリカの国民的英雄となり1840年の大統領選挙で勝利しました。さて、「戦争の英雄」というイメージを有効に活用して大統領にまで登り詰めたハリソンでしたが、その最期はあっけないものでした。彼は1841年3月4日の極寒の日に、二時間近いアメリカ史上で最長の就任演説えお行い、それが元で風邪を引き肺炎を起こして亡くなりました。自身の就任演説のせいで死んだ大統領は、人類史上滅多にいないのではないでしょうか。上記の最期の言葉は、副大統領ジョン・タイラーに対して離されたものですが、ハリソンの死去に伴いタイラーが大統領に昇格しました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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