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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I am a broken piece of machinery. When the machine is broken... I am ready.

私は壊れた機会の一部だ。機械が壊れる時……覚悟はできている。

ウッドロウ・ウィルソンの最期の言葉。トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領。進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。1885年にブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州のウェスリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウと並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている。合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジミール・レーニンの平和に関する布告に対抗して十四か条の平和原則を発表、新世界秩序を掲げて国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ウィルソンは第一次世界大戦におけるリーダーシップから、最も偉大な大統領の一人として見なされる。

ウッドロウ・ウィルソンは、アメリカ史上最も偉大な大統領の一人として高く評価されている人です。「戦争を終わらせるための戦争(The war to end war)」として第一次世界大戦への参戦を決断し、連合国を勝利に導きました。「戦争を終わらせるための戦争」という言葉は、世界大戦の最も一般的なキャッチフレーズだったのですが、たった一度しかこの言葉を使っていないウィルソンにこの言葉が帰せられることになりました。今でも多くの人がこの言葉を考えたのはウィルソンだと信じているようですが、元々は英国の作家で社会評論家のハーバート・ジョージ・ウェルズが書いた新聞記事とそれをまとめた本のタイトルです。大戦末期にはウラジミール・レーニンの平和に関する布告に対抗して十四か条の平和原則を発表し、その第14条「国際平和機構の設立」において国際的平和維持機構の設立を呼びかけました。ウィルソンは新世界秩序を掲げて国際連盟の創設に尽力しましたが、アメリカ合衆国自身は、上院外交委員長であったヘンリー・カボット・ロッジなどモンロー主義を唱える上院の反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しませんでした。ウィルソンは1856年12月28日に牧師であったジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン(1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の子供の3番目、長男としてバージニア州スタントンで生まれ父親は彼に牧師の後を継がせようとしましたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志しました。ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となりました。ウィルソンはディスレクシア(失読症)の為、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができませんでしたが、それを克服するため、速記を独学で覚え、彼は決断と自己規律を通して学業を修めました。彼は名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一のアメリカ大統領です。1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名し、ウィルソンは「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げました。共和党のウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトがお互いに対立し、共和党が内部分裂したため、結果ウィルソンは大統領選に勝利しました。ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行し、企業独占を支えた高率の関税を引きさげるなど、改革の意志を鮮明にしました。一方、外交では強硬な姿勢を保ち中南米諸国から反発を招きました。また、中立の立場に保っていた第一次世界大戦に対して、ルシタニア号沈没事件による国民の反独感情を受けて、1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告しました。開戦にさいしウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧しました。ウィルソンはもともと偏頭痛が持病であったが、1919年10月2日、コロラド州で脳梗塞を発症し、一命は取りとめましたが、左半身不随、左側視野欠損、言語症と重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となりました。しかし主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後国政の決裁はイーディスが夫の名で行いました。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期頃になってようやく閣議に出席できるまでに回復しましたが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事勿れ主義が目立つものとなりました。こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となりました。1921年、ウィルソンと妻はホワイトハウスを離れ、ワシントンD.C.のエンバシー・ロウにある自宅に移りました。ウィルソンの最期は1924年2月3日に自宅で亡くなりました。彼はワシントン大聖堂に埋葬されたのですが、彼はワシントンD.C.に埋葬された唯一の大統領でもあります。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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