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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

(彼が椅子から落下した時に、動揺する娘に向かって苦悶しながら)

My right side is paralyzed. I need no doctor. I can overcome my troubles.

私の体の右側は麻痺している。医者はいらない。私は困難に打ち勝つことができる。

アンドリュー・ジョンソンの最期の言葉。アンドリュー・ジョンソン(英語: Andrew Johnson, 1808年12月29日 - 1875年7月31日)は、アメリカ合衆国の第16代副大統領および第17代大統領。南部11州の脱退時点で、ジョンソンは脱退したテネシ-州選出の上院議員であったが、脱退反対論の強かったグリーンビル出身であった。ユニオニストとして彼は、辞職しなかった唯一の南部出身上院議員であった。彼は最も著名な南部出身のタカ派民主党員となり、南北戦争の間、リンカーンの軍事政策を支持した。1862年にリンカーンはテネシー州軍政長官にジョンソンを任命した。ジョンソンは反乱への対処とレコンストラクションへの移行を始めるのに精力的に活動した。ジョンソンは1864年に国民統一党の副大統領候補に指名された。リンカーンと共に1864年11月に選挙に勝利し、1865年3月4日に副大統領に就任した。1865年4月15日にリンカーンが暗殺されると、大統領職を継いだ。リンカーン大統領の暗殺に続いてジョンソンは南北戦争後の4年間、合衆国のレコンストラクションを統括した。ホワイトサウスを支持する立場を取ったジョンソンは共和党のタデウス・スティーブンスら急進派共和党からの激しい政治攻勢を受け、弾劾訴追を受けることとなったが、無罪判決を受けている。1808年12月29日にジェイコブ・ジョンソン(1778年 - 1812年)およびメアリー・マクドノー(1783年 - 1856年)の息子としてノースカロライナ州ローリーで生まれた。父親のジェイコブはアンドリューが3歳頃に死去し、一家は貧困の中に残された。母親は家計を支えるため機織りの仕事を行い、後に再婚した。母親はアンドリューが10歳か14歳の時に洋服屋へ奉公に行かせた。1820年代に彼はサウスカロライナ州ローレンスの仕立屋で働いた。貧しい家庭のためジョンソンは正式の教育を受けず、独学で読み書きを学んだ。1826年、16歳もしくは17歳で見習いを終え、兄弟と共にテネシー州グリーンビル(英語版)へ移り住んだ。同地で洋服屋の従業員として働く 。1827年、19歳のジョンソンは17歳のイライザ・マカーデルと結婚した。1828年から52年までの間に夫妻は5人の子供をもうけた。:マーサ(1828年生)、チャールズ(1830年生)、メアリー(1832年生)、ロバート(1834年生)、アンドリュー・ジュニア(1852年生)。イライザは基礎的な代数までの計算をジョンソンに教え、彼の読み書きと作文を改善するために家庭教師を行った。1828年から1830年までグリーンビル市会議員、1834年から1838年までグリーンビル市長を務めた。1835年から1837年および1839年から1841年まで下院議員。同年に民主党上院議員に選出され、第28議会および次の4つの議会に選ばれた(1843年3月4日~1853年3月3日)。第31と第32議会の公共支出委員会の議長だった。自ら奴隷を有し奴隷制の賛同者であるが、脱退反対勢力の強かった東テネシー出身であり、南部諸州の脱退に反対であった。脱退した11州選出の上院議員のうち、ワシントンにとどまったのは彼だけであった。ゆえにリンカーンに気に入られ、副大統領の地位を手に入れる。リンカーン大統領暗殺事件後は大統領に昇格。リンカーンがやり残した南北戦争の戦後処理をおこなった。黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させた。戦後、北部出身で奴隷制反対論者の共和党内の多数派は黒人解放・奴隷制廃止の方向に動いたが、ジョンソンは奴隷制廃止を唱える議会と対立。拒否権を29回行使している。連邦政府による南部再建(レコンストラクション)において、南部人に寛大な政策をとったとみられ、そのせいで共和党急進派のメンバーと馬が合わず、政敵である陸軍長官スタントンを罷免したことからThe Tenure Law(政府高官が在職中は罷免を免れる法律)を破ったという口実で弾劾裁判にかけられた。ジョンソンに対する弾劾の訴追は1868年2月24日に下院を通過した。弾劾法廷は同年3月5日に上院で組織された。上院での弾劾決議の採決では賛成35票・反対19票(賛成率が64.8%)となった。弾劾の成立には三分の二以上、つまり36票以上の賛成が必要だが、1票足りなかった。そのため、辛うじてジョンソンは大統領の座を保つことができた。しかし、この一連の騒動により議会とジョンソンの対立の溝は決定的なものになり、政権のレームダック化は免れなかった。1869年3月4日に任期満了に伴い退任した。ジョンソンは1998年12月19日にビル・クリントンが弾劾訴追で弾劾裁判にかけられるまで、唯一弾劾裁判にかけられた大統領だった。また、ウォーターゲート事件で追い詰められたリチャード・ニクソンは、弾劾訴追をうけると、弾劾裁判前に辞職している。ジョンソンは1868年の上院および1872年の下院選挙で落選した。1875年3月4日、民主党の上院議員として、大統領経験者としては唯一選出されたが、テネシー州の娘の家を訪れた際に病気に罹り、7月31日にテネシー州エリザベストンの近くで死去した。遺体はテネシー州グリーンビルのアンドリュー・ジョンソン国立墓地に葬られた。

アメリカ合衆国第17代大統領アンドリュー・ジョンソンは、史上最悪の人種差別主義大統領と言われることがあります。それは彼がリンカーンによって登用された副大統領であったにも関わらず、奴隷制廃止を唱える議会と対立したからです。しかし、これは少々一方的な意見かもしれません。なぜなら、リンカーンは確かに西部の新しい領土で奴隷制が拡大することには反対でしいましたが、「現在、南部に存在する奴隷制度については間接的にも直接的にも干渉する意思はない」と述べており、早急に奴隷を解放しようとしていた訳でありませんでいした。また、リンカーンはは1858年には、「これまで私は黒人が投票権をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さんと同じように白人の優位性を疑ったことはない」とも語っています。これらのことを考えれば、リンカーンが奴隷を解放した英雄であり、ジョンソンがリンカーンの死後それを阻害したという考えは間違いであります。とはいえ、アンドリュー・ジョンソンは自ら奴隷を有し奴隷制の賛同者であり、南北戦争の戦後処理をにおいて、黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させたことは事実です。また、南部諸州では次々とジム・クロウ法(黒人差別法)が制定されていきましたが、ジョンソンはそれを黙認しました。しかし、連邦政府による南部再建(レコンストラクション)において、南部人に寛大な政策をとったとみられ、そのせいで共和党急進派のメンバーから、政敵である陸軍長官スタントンを罷免したことについてThe Tenure Law(政府高官が在職中は罷免を免れる法律)を破ったという口実で弾劾裁判にかけられましたが、反対票が1票足らずかろうじててジョンソンは大統領の座を保つことができました。しかし、ジョンソンと議会の溝は決定的なものとなり、政権のレームダック化は免れれず、1869年3月4日に任期満了に伴い退任しました。大統領の職務を退いた後は、1875年3月4日に民主党の上院議員として、大統領経験者としては唯一選出されましたが、テネシー州の娘の家を訪れた際に病気に罹り、7月31日にテネシー州エリザベストンの近くで亡くなりました。遺体はテネシー州グリーンビルのアンドリュー・ジョンソン国立墓地に葬られました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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