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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

我が君の命に代わる玉の緒を 何いとひけむもののふの道

鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の辞世の句。鳥居強右衛門は戦国時代の足軽。奥平家の家臣。名は勝商(かつあき)。強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。奥平氏はもともと徳川家に仕える小大名であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けてその傘下に下っていた。ところが、武田家の当主であった武田信玄が死亡すると、奥平氏は再び徳川家に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5000の武田軍に攻囲された。5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも大小の攻撃を受けながら、長篠城は周囲を谷川に囲まれた地形が幸いして、城兵たちは果敢に防衛を続けていた。しかし、13日の武田軍の猛攻によって、城の北側にあった兵糧庫を焼失。長篠城は食糧を失って、長期籠城の構えから一転、落城寸前にまで追い詰められていた。このため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した。しかし、武田の大軍によって十重二十重に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。この命がけの困難な役目を自ら買って出たのが強右衛門であった。彼は雑兵・軽輩の類であったとされるが、一刻を争う非常事態である以上、身分をとやかく言っていられなかった。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。彼は水泳を得意とする男で、川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらました。翌朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火を上げ、脱出の成功を連絡。15日の内に岡崎城にまで赴いて援軍を要請した。この時、幸運にも家康からの要請を受けた尾張国の織田信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着しており、織田・徳川合わせて3万8000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手はずとなっていた。これを知って喜んだ強右衛門は、城の仲間たちにこの朗報を一刻も早く伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げるが、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう、強右衛門に命令した。こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へ引き立てられた。しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「あと二、三日のうちに援軍が来る。それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で強右衛門を磔にして殺した。しかし、強右衛門の命を賭した忠義と壮烈な死に様を見届けた長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にはしないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通す事に成功した。この事が5月21日の鳶ヶ巣山の局地戦や設楽原本戦の勝利を呼び込み、後年には徳川氏の天下統一を成立させる結果へとつながった。

我が君主の命に代わる私の命を 何と言えるだろうか武士の道

鳥居強右衛門はただの足軽にすぎないにもかかわらず、その一死をもって歴史に名を残した人です。「人もとより一死あり、あるいは泰山より重く、あるいは鴻毛より軽し」とは中国の歴史家司馬遷の言葉ですが、彼の命を賭した忠義によって、ついに長篠城は落ちませんでした。上述の通り鳥居強右衛門は、長篠の戦の勝敗とその後の天下の行方を決した人物の一人であると言えるでしょう。たった一人の歩兵が歴史を変えたと言いたいのかって? 全くその通りです! 強右衛門の命を賭した行為は、後世忠義の見本として大いに賞賛され、太平洋戦争中には『戦陣訓』と関連付けて評価されました。鳥居強右衛門はその最期の地にちなんで、今もJR飯田線の鳥居駅にその名を残しています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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