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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

夏山の茂みふきわけもる月は 風のひまこそ曇りなりけれ

今川義元の辞世の句。今川義元は戦国時代の武将、駿河国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れて戦死した。永正16年(1519年)、今川氏親の五男として生まれる。母は父の正室である寿桂尼(中御門宣胤の娘)。永禄3年(1560年)、駿河・遠江の守護および上総介を今川家当主である氏真に譲り、みずからは新領国である三河守護のみに就任し三河守に遷任する。形式上今川家の隠居の身であった義元ではあるが、5月には那古野城を目指し駿・遠・三2万5,000の軍を率いて尾張国への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に織田信長の攻撃を受け松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・左文字の太刀ともども首級を奪われた。享年42。織田方に討ち取られた首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣・岡部元信と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻った。義元の戦死により氏真が継いだが、この隙に乗じた松平元康が西三河で自立。この動きに追従する様に東三河でも戸田氏や西郷氏などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。この様な三河の動揺が隣国・遠江へも伝播すると、正誤の判別がつかない情報が飛び交う遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまう(遠州錯乱)。氏真は人心を掌握する才能に乏しく井伊直親や飯尾連竜などの粛清で事態の収拾を期したが、かえって人心の離反を加速させてしまい今川氏は見る見るうちに衰退し始めた。義元の死から8年後、信玄によって駿河を追われ、ここに戦国大名としての今川家は滅亡した。

夏山の茂みが風に吹かれ月の光がこぼれ見えているが 風がやむと月が見えなくなった

この歌は厳密には辞世の句ではありません。桶狭間の戦いのあった永禄3年に詠まれた最後の歌が、そのまま辞世の句になってしまったものです。ですが皮肉なことに、その後の自身の運命を予感させるような歌となっています。上手い歌ではありますが、ほんのちょっと風が止んだ間に雲隠れ(死ぬこと)してしまうと詠んだのは、何か運命的なものを感じさせます。もちろん詠んだ本人はちっともそんなことは、考えてなかったでしょうけど。今川義元は実際には名君でありながらも、通説では桶狭間の戦いで圧倒的に有利な情勢から信長を軽んじ、明らかに地の利が無い田楽狭間で安穏と休憩を取ったことが致命的となったなどから、非常に低く評価されることが多い不運な人です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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