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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Nature and Nature's laws lay hid in night: God said, 'Let Newton be!' and all was light.

自然と自然の法則は夜の闇に横たわっていた 神は言い給うた、『ニュートンあれ』、すべては光の中に現れた

アイザック・ニュートンの墓碑銘。アイザック・ニュートンは)はイングランドの自然哲学者、数学者。神学者。ニュートン力学を確立し、古典力学や近代物理学の祖となった。古典力学は自然科学・工学・技術の分野の基礎となるものであり、近代科学文明の成立に影響を与えた。アイザック・ニュートンは1642年のクリスマスにイングランドの東海岸に位置するリンカーンシャー州の小都市グランサムから南方に10kmほど離れた一寒村ウールスソープ-カールスターワースにおいて、同名のアイザック・ニュートンを父として、ハナ・アスキューを母として生まれたが、生まれた時父親はすでに他界していた。1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学した。当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、デカルトやガリレオ、コペルニクス、ケプラーといった自然哲学者の著書を好んで学んだ。例えば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学』ラテン語版第二版、ウィリアム・オートレッドのClavis Mathematicae(『数学の鍵』)、ジョン・ウォリスの『無限算術』などであり、自然哲学分野ではケプラーの『屈折光学』、チャールトンの原子論哲学の入門書などを読んだのである。ここでニュートンは良き師に巡り会うことになった。アイザック・バローである。 ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローはニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトン主義を奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。ニュートンの三大業績は全て25歳ころまでになされたものである。1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。これは師バローがニュートンの才能を認めていて、自分のポストを弟子に譲るという形で実現したのである。ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学(Opticks)』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、および聖書研究や錬金術の実験などに没頭した。ニュートンは哲学者であったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ。ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32%である。1705年に、アン女王からナイトの称号を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジで、自然哲学の業績に対するものであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られたのは、ニュートンが最初である。授与から20年ほど後の1727年に死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。

アイザック・ニュートンは数学者として非常に有名ですが、この人が神学や錬金術にのめり込んでいたことはあまり知られていませんが、神秘の探求は彼の永遠のテーマでありました。このことからもニュートンが常軌を逸した天才であり彼が後世に与えた影響は、良くも悪くも絶大であることが言えるでしょう。例えばヨーロッパ中に難解な数学問題を新聞に出題していたヨハン・ベルヌーイが1696年に「鉛直線上に2つの点があるとする。一つの物体が上の点から下の点まで引力のみで落下する時に要する時間をもっと短くするには、どのような道筋に沿って降下すれば良いか?」という最速降下点と呼ばれる問題を出題すると、問題に目を通したニュートンは今日変分法と呼ばれる新しい数学の分野を一夜で組み立て、翌朝の出勤前までに解答し終え、匿名でベルヌーイに投稿したという、超人的なエピソードがあると思えば、飼っていた猫達が自由に出入り出来るようにと、大きい猫用と小さい猫用の大小2つの扉を作ったが、大きい猫も小さい猫も大きな扉から出入りする様子を見て首を傾げたというものまで、常人には理解できないような数々の逸話をニュートンは残しています。ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていましたが、これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語で "Hypotheses non fingo"(われ仮説を立てず)と宣言し、あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開しました。彼のこういった考えは、哲学的唯物論や実証主義と緊密に結びついたイギリス経験論の影響によるものでしょう。このような方法論が実証主義による近代科学の礎になったと言えます。ニュートンの一連の発見は、19世紀になるとロマン主義の観点から非難されるようになりました。特に、ジョン・キーツ、ウィリアム・ブレイク、ウィリアム・バトラー・イェイツらはニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言して憚りませんでした。それに対し、リチャード・ドーキンスは著書「虹の解体 ("Unweave the rainbow")」で、スペクトルの発見に代表されるニュートンの研究こそは人類の知見を大きく広げることに貢献したのであり、結果として宇宙へのセンス・オブ・ワンダーを生み出し、詩情の源泉となると反駁しました。ニュートンは光学において光のスペクトル分析を行い、白色光がプリズム混合色であるとして、色とスペクトルの関係について光は屈折率の違いによって七つの色光に分解されると唱えましたが、ゲーテは『色彩論』において色彩が屈折率という数量的な性質に還元されて理解されることを批判し、色の生成に光だけでなく闇を持ち出し、光と闇の中間にあってこの両極が作用し合う「くもり」の中で色彩は成立すると論じました。これに対してニュートンの光学では闇とは単なる光の欠如であり、研究の対象になることもありませんでした。この論争は完全な一神教であるプロテスタント的な思想と、物質と霊の二元論を取るグノーシス主義的な一種の思想的な対立であったとも言えると思います。上記の碑銘は詩人のアレキサンダー・ポープが聖書の創世記を元にして書いたものですが、これはニュートンの思想が的確に記されていると思います。つまりニュートン主義にとって、闇とは単なる無であり混沌であって価値のないものであり、ニュートンによって光がもたらされたことで、自然と自然の法則が解明されたということでしょう。ニュートンとゲーテとどちらが正しいのかについては、非常に難しいながらも重要な問題だと思います。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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