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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

いざ児らよ戦うなかれ戦わば 勝つべきものぞゆめな忘れそ

東郷茂徳(とうごう しげのり)の辞世の句。東郷茂徳は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える。東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の子孫である。なお元帥海軍大将の東郷平八郎とは血縁関係は無い。旧制の第七高等学校造士館(のち鹿児島大学)に進学。そこに赴任していた片山正雄に師事したことがきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった。その後、東郷は東京帝国大学(のち東京大学)文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師の片山も学習院大学教授として赴任。片山は、自らの師でドイツ文学者の登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した。初めは登張の影響でドイツ文学者を志していたが、1912年(大正元年)に外務省に入省。1919年(大正8年) - 1921年(大正10年)に対独使節団の一員としてベルリンに東郷が赴任した。このときドイツは、第一次世界大戦敗戦後に成立したワイマール共和国下での、カップ一揆が勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係は比較的安定した状態にあった。また、東郷はこの赴任時にドイツ人エディ・ド・ラロンド(建築家ゲオルグ・デ・ラランデの未亡人)と出会い、恋仲となる。ドイツから帰国後、反対する両親を説得して、1922年帝国ホテルで挙式した。1941年(昭和16年)に東條内閣に外務大臣として入閣した東郷は、日米開戦を避ける交渉を開始した。まず北支・満州・海南島は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、統帥部の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任だと考えたこと、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけだと考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落にともない、日本の敗戦が不可避だということを悟り、世界の敗戦史の研究を始めた。獄中で認めた手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記している。このため、東郷は、当時はまだ中立条約が有効であった相手国のソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案し、広田弘毅・マリク駐日ソ連大使との会談や、特使近衛文麿のソ連派遣打診などを行う。しかし当時ソ連は既にヤルタ会談によって対日参戦を決定しており、交渉はポツダム宣言発出以降も引き延ばされ、ソ連の対日参戦という結果となった。アメリカの広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日参戦という絶望的な状況変化に伴い、東郷はポツダム宣言受諾を主張。天皇の御聖断を仰いだ結果、東郷案が認められた。アメリカ側による「バーンズ回答」は、天皇の地位は守られると解釈できる内容だったが、天皇が連合国最高司令官の権限に従属すること、そして日本政府の形態を日本国民の意思により決定すること、という項目もあった。このことから当初は、阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎陸軍大将など本土決戦を求める陸軍側のみならず、内閣の面々からも反発の声が挙がった。一部の陸軍強硬派がクーデターを企てるなど不穏な情勢になるのを懸命に抑えていた部分もあったため、東郷はこうした陸軍上層部の人々の置かれている状況に配慮しつつ、粘り強く説得した。その後、昭和天皇が二度目の御聖断として東郷支持を表明したことにより、陸軍の一部強硬派も折れ、終戦を迎えた。「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月11日に東條元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられた。終戦の翌年の1946年5月1日に巣鴨拘置所に拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。1948年(昭和23年)11月4日、裁判所は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年の判決を下された。東郷は後に「法の遡及」を行い、「敗戦国を戦勝国が裁く」というこの裁判を強く批判する一方で、国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい憲法第9条がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露している。だが、1960年(昭和35年)の日米安全保障条約改訂において、憲法第9条の精神を尊重することを重視して軍事的な同盟では平和がもたらされないと考える西春彦や石黒忠篤(東郷の親友、当時参議院議員)らと交渉の担当課長として日本の平和と安全のためには条約改訂は欠かせないとする東郷文彦らが激しく対立して、後に文彦が著書で暗に西を非難するという、東郷の遺志を継ぎたいと願う人達が対立するという事態も発生している。東郷は以前から文明史の著書を執筆して戦争がいかにして発生するのかを解明したいという考えを抱いていたが、心臓病の悪化と獄中生活のためにこれを断念し、替わりに後日の文明史家に資するために自己の外交官生活に関わる回想録の執筆を獄中で行い、『時代の一面』と命名する。だが、原稿がほぼ完成したところで病状が悪化、転院先の米陸軍第361病院(現同愛記念病院)で病死した。

さあ子供達よ戦いをするな戦うならば 勝たなくてはならないとゆめゆめ忘れてはならない

東郷茂徳は平和工作に奔走しながら、平和に対する罪で裁かれたという不運な人です。また真珠湾攻撃の責任をめぐっては、裁判において軍に責任を擦り付けようとしているとして、非難もされました。辞世の歌は彼の本音でしょう。戦争はしない方が良いですが、もし戦うならば勝たなくてはならないのだということは忘れてはいけないということです。すなわち勝てもしない戦いは、してはならないということですね。この歌からも東郷茂徳が軍事裁判に、不満をもっていたことは明らかですが、戦争について勝った方が一方的に、負けた方を裁いて良いのかについては、難しい問題であると思います。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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