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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Here lies a man who was able to surround himeself with men far cleverer than himself.

自分より賢い人間を自分の周りにおく方法を知っていた者ここに眠る

アンドリュー・カーネギーの墓碑銘。アンドリュー・カーネギーはスコットランド生まれ、アメリカ出身の実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収め「鋼鉄王」と称された(後に会社は売却され、合併してUSスチール社となる)。彼は、事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、今日でも慈善家としてよく知られている。また、ナポレオン・ヒル・プログラムの創始者、ナポレオン・ヒル博士に自身の成功哲学に基づく成功プログラム開発を発注したことでも有名である。1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた。当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカへの移住を決める。アメリカへ移住した後、12歳のカーネギーは学校へ行かずに紡績工場で働く。その後、何度か転職し、ピッツバーグ電信局の電報配達の仕事に就く。当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、16歳のカーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、電信技士に昇格した。その後、トーマス・A・スコットに秘書兼電信士として引き抜かれ、ペンシルバニア鉄道へ入社する。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。1861年に南北戦争が始まると、北軍に味方するスコットに同伴し、軍の輸送を支援した。南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、事業家となる。当時の鉄道の橋は木製が多かったが、彼は耐久性に優れた鉄製の需要増加を予測し、キーストン鉄橋会社を設立し成功した。さらに、技術革新により鋳鉄よりも強靭な鋼鉄の大量製造が可能になり、鉄道のレールや建築へ使用されることを予見し、製鉄事業の規模拡大に力を注ぎ、鋼鉄王と呼ばれた。しかし、従業員の労働環境は劣悪であった。1901年に、鉄鋼会社をモルガンへ4億8000万ドルで売却し、以後は慈善活動を行った。

意外に思うかもしれませんが、19世紀後半から20世紀初期の米国で、アンドリュー・カーネギーを含め産業界の指導者の多くは「反軍備」「反戦争」の立場であり、産業としての軍備に反対していた。アメリカ反帝国主義連盟のメンバーでした。彼は著書『富の福音』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べていますが、同時に社会ダーウィン主義の実践者でもあり、不平等な状態を是としました。それゆえ無条件に貧しいものへ与えることを有害とし、努力する者を支援するために、富が使用されるよう寄付する者が責任を持つべきだとしています。この彼の思想はプロテスタント的な、資本主義の精神を体現していると言えるでしょう。そのため、彼は自分が今まで稼いできた資産の全額を寄付に廻しています(カーネギーが、死ぬ前年までに寄付した総額は、3億5069万ドルに達したそうです)。彼は「富を持って死ぬことは不名誉である」と主張し、死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、スタンフォード大学の創設者スタンフォードのような例を模範として実践しました。彼はアメリカンドリームと、アメリカ的な寛大な精神を両立させた数少ない人物の一人であると言えるでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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