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新・立命館大学戦史研究所

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今日の辞世の句 

みよや人嵐の庭のもみぢ葉は いづれ一葉も散らずやはある

平野国臣の辞世の句。平野国臣は日本の武士・福岡藩士、志士。大蔵氏の流れをくむ。通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。贈正四位。福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の二男に生まれる。父吉郎右衛門は千人もの門人を抱える神道夢想流杖術の遣い手で役務に精勤して士分に取り立てられている。国臣は足軽鉄砲頭小金丸彦六の養子になった。福岡では漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒する。また、お由羅騒動で薩摩藩から筑前へ亡命していた島津斉彬の側近北条右門(木村中之丞)と親交を持っている。安政5年(1858年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。ところが7月に斉彬は急死し、率兵上洛は立ち消えとなった。国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになった。国臣の志士活動のはじまりである。その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。結局、西郷たちの工作は失敗し、幕府から逮捕命令が出された勤王僧月照を薩摩へ逃そうとするが、藩情が一変して難航。筑前で国臣は月照たちと合流し、供となって薩摩へ向かった。国臣と月照は山伏に変装して、関所を突破し、11月にようやく鹿児島に入った。藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、東目(日向国)への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。国臣は追放され筑前へ帰った。肥後の松村家に戻った国臣は後に「人斬り彦斎」の異名を持つ河上彦斎と交流している。福岡藩の探索を察した国臣は河上の手引きで天草へ移り、『尊攘英断録』を著わした。公武合体ではもはや時局に対応できず、薩摩藩など大藩が天皇を奉じて討幕の兵を挙げるべしとの過激な内容であった。文久2年(1862年)3月、久光は藩士1,000人を率いて上京の途についた。噂を信じた尊攘浪士が京、大坂に集まり、不穏な情勢となる。国臣そして有馬新七ら誠忠組の急進派もこの機に兵を挙げるつもりでいた。ところが、久光には討幕の意思なぞなく、上洛は公武合体の運動のためだった。4月になって急進派の動きを知った久光は驚き、直ちに鎮撫させるか従わなければ上意討ちするよう命じた。4月23日、鎮撫に遣わされた奈良原繁、大山綱良ら9人と急進派が寺田屋で斬り合いになり、有馬ら6人が死亡し、他は捕縛され薩摩へ送り返された。(寺田屋事件)国臣はこれより前の4月12日に参勤交代の途上で大坂の近くまで来ていた福岡藩主・黒田斉溥へ情勢の不穏と、挙兵への協力を訴える嘆願を提出すべく、藩公行列に出頭していた。驚いた福岡藩の役人はとりあえず国臣を旅館へ案内してもてなしたが、そこへ薩摩藩の捕吏が押し込み国臣を捕縛してしまった。浪人嫌いの久光の命令であった。国臣は福岡藩へ引き渡され福岡へ送り返されることになった。尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く牢屋へ入れられてしまった。情勢が再び勤王派に有利となった文久3年(1863年)3月に釈放された。この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。8月17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。急ぎ京へ戻るが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていた。国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画した。周防国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入った。この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切った。10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2,000人が集まり意気を挙げた。だが、幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の沢が逃げ出してしまった。農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図るが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎につながれた。元治元年(1864年)7月、禁門の変を端にして発生した火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。処分は未決状態ではあったが、他の30名以上の囚人とともに斬首された。享年37。

人よ見よ嵐の庭のもみじ葉は いづれ一葉も散らずにいるだろうか

この人も幕末を駆け抜けた尊王過激派の一人です。幕末は日本の歴史の中で最も面白くも血なまぐさい時代の一つです。こんな短期間に、これだけの陰謀と事件が渦巻いたことは他になかったでしょう。歌の方は未決のまま処刑されたということもあってか、嵐の果てに全ての紅葉が散ってしまうという、無常というよりはかなり破滅的なものとなっています。しかし、彼の処刑のきっかけになった禁門の変による火災が、同じ尊王派の長州藩勢力が起こしたということには、人の世の皮肉を感じずに入られません。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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