07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God.

私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そして全ては神のために

内村鑑三の墓碑銘。内村鑑三は日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。1861年(万延2年)高崎藩士内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父宜之が「鑑三」と名付けたと言われる。1873年(明治6年)に内村は単身で上京して、有馬学校英語科に入学した。この時の同級生に後の日本銀行総裁の三島弥太郎がいる。有馬学校で1年学んだ後、東京外国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生に、末松謙澄、天野為之、佐藤昌介らがいた。後の首相加藤高明は一級に在籍していた。この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。一年遅れたことにより、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で旧約聖書の聖書物語触れた。1878年(明治11年)6月2日には、米国・メソジストキリスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。1881年(明治14年)7月、札幌農学校を卒業する際に、内村と新渡戸と宮部の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。また、1881年10月に結成された札幌YMCAの副会長になった。1882年に開拓使が廃止されると、札幌県御用係になり、漁業調査と水産学の研究を行った。伝道者になるために札幌県に辞職願を提出して、1882年6月に受理された。しかし、津田仙の学農社農学校の教師になり、12月からは農商務省の役人として水産課に勤め、日本産魚類目録の作成に従事した。1882年12月の第三回全国キリスト信徒親睦会には、札幌教会代表で有名な演説を行った。1884年(明治17年)に私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着する。拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。コネチカット州のハートフォード神学校に入学するが、神学教育に失望し、1888年(明治21年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。1890年(明治23年)から、植村正久の一番町教会の長老木村駿吉の推薦により、第一高等中学校の嘱託教員となった。1891年(明治24年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっていたので、代わりに木下駿吉が行った。しかし、マスコミが大きく取り上げて「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝され、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。内村は流感で病床にあり意識不明だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。1892年帝国大学文科大学教授の井上哲次郎によって「不敬事件」の論争が再燃した。1893年になると、井上の所論をめぐりキリスト教会はもとより、仏教界、思想界、学会、教育界、ジャーナリズム界で大論争が巻き起こった。内村は井上の記す「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論したが、国家主義的な時流により、世論は井上に味方した。この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒の慰』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表した。1893年4月に熊本英学校の教師として赴任し7月まで務め、その後は京都に住んだ。京都に帰る途中で、須磨で開かれた第五回夏期学校に講師として出席した。横井時雄と共に講演し、内村は日本教会論を語った。この論は、2月に発行された『基督信徒の慰』にも記されている。不遇だった京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。蘇峰のおかげで、『国民之友』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた。『国民之友』の編集の国木田独歩も、内村に感銘を受けた一人である。1923年7月7日に、自分の後継者と期待していた元弟子の有島武郎が、人妻の波多野秋子と心中した。これを聞いた内村は『萬朝報』に「背教者としての有島武郎氏」という文章を載せた。死の原因を「コスミック・ソロー(宇宙の苦悶)」であるとのべ、激しい怒りを表明した。1930年1月20日に、柏木の聖書講堂で「パウロの武士道」について述べたのが公の場に出た最後であった。3月26日の内村の古希感謝祝賀会には本人は出席できず、長男祐之が挨拶した。翌々日、3月28日朝に「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」との言葉を最後に昏睡状態に陥り、午前8時51分に家族に見守られて死去した。

内村鑑三の不敬事件は歴史の教科書にも載っていますが、実相上記のようには天皇陛下に対して不敬の意を示したというわけではなかったようです。内村の非戦論については、日清戦争は支持していましたが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになりました。『戦争廃止論』を萬朝報に発表し、萬朝報も当初は非戦論が社論でありましたが、1903年世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとになりました。ただ内村鑑三の非戦論は少し複雑で、「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけており、また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じています。内村は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げており、あらゆる暴力と破壊に対する抗議に積極的に参加したと同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を持っていました。また内村は幸徳秋水ら社会主義者と深い関係がありましたが、後年にはその社会主義を批判しています。1915年『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張し、社会主義を批判しています。墓碑銘は内村がアメリカ・アマースト大学に留学中に魂の苦悩を感じていた時に、シーリー学長に「内村君、自分の内なる罪を見ることをやめよ。十字架上に君の罪を贖い給うた主イエスを仰ぎ見よ」と言われ、激しい衝撃を受け回心の感動にふるえながら、愛用の聖書の見返しに、英語で「わが墓に刻印されるべきこと」と生涯の誓願として書き込んだ言葉です。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/194-ea18ca15
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。