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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

さらぬだに打ぬる程も夏の夜の 別れを誘ふ郭公かな

お市の方の辞世の句。お市の方は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。市姫とも小谷の方(おだにのかた)とも称される。また、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。尾張国出身。近江国の浅井長政、後に織田氏家臣の柴田勝家の妻。父は織田信秀、母は側室または正室(継室)の土田御前。兄に織田信広・織田信長・織田信行・織田信包・織田信興・織田長益、弟に織田長利、姉にお犬の方などがいる。子に茶々(豊臣秀吉側室)[3]・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠継室)がいる。『信長公記』によれば、永禄10年(1567年)に兄・信長の「娘分」として近江国(現在の滋賀県)の浅井長政に嫁ぎ、この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結ぶ。元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、長政と市の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったという。長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害した。市は3人の娘(茶々、初、江)と共に藤掛永勝らによって救出され織田家に引き取られるが、長男の万福丸は捕われて殺害され、次男の万寿丸は出家させられる。その後は信長の許しを得て、清洲城にて兄の信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを平穏に過ごしたという。この時の信長の市親子に対する待遇は大変厚く、市や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。信包も、「浅井家の血が絶えるのは忍びない」と言い、市や三姉妹を手元で保護し、姪達を養育したという。信長死後の天正10年(1582年)に柴田勝家と再婚する。織田信孝の仲介によるとされてきたが、近年は、羽柴秀吉の仲介を伺わせる書状から、秀吉の仲介であった説が有力となっている。同年、勝家の勧めにより、京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営む。翌天正11年(1583年)、夫の勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に越前北ノ庄城内で自害した。享年37。

そうでなくても夏の夜はすぐに明けてしまうというのに 別れを誘うホトトギスだな

お市の方は戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられる人です。かの信長にも「市が男だったなら、良き武将となったであろう」とまで述べられたそうです。『朝倉公記』によると金ヶ崎の戦いの折り、信長に袋の両端を縛った「小豆袋」を陣中見舞いに送り、挟み撃ちの危機を伝えたという逸話が知られていますが、これは俗説である疑いも強いです。もっとも当時の風習からすると、女性は婚家より実家に属していたので、兄の味方をしていた可能性は十分ありますが。辞世の歌の「打ぬる程」とは、時を告げる鐘のことでしょう。自分の一生を短い夏の夜に例えて、運命に翻弄された人生を詠んだのでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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