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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

つねよりもむつまじきかなほととぎす 死出の山路の友と思えば

鳥羽天皇の辞世の句。鳥羽天皇は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。外祖父は藤原実季。崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇は子。『古事談』の記述では崇徳天皇を白河天皇の実子としている。生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位。政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年に中宮とし5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月23日、長子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。白河法皇の死後、大治4年(1129年)より院政を敷く。白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、院の要職を自己の側近で固める。さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、所生の皇子・体仁親王(近衛天皇)を即位させた。崇徳、近衛、後白河の三代28年に渡り実権を掌握。康治元年(1142年)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。皇后・美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ、鳥羽法皇の崩御の直後に保元の乱が勃発する原因を作った。また寵愛の孫・守仁親王(後の二条天皇)へ皇統を継がせることを決めるが、父子の順番からまず守仁親王の親・後白河天皇を中継ぎに即位させたことは、後に平治の乱の原因となった。

いつもより仲睦まじいかな時鳥 死出の山道の友だと思えば

一般的に鳥羽天皇は、保元・平治の乱の原因を作った天皇として知られています。保元の乱に敗れた崇徳上皇は流罪にされ、後に怨霊になったという伝説が生まれるほど無念の死を遂げました。保元の乱は平安時代の終章の幕開けとなり、平治の乱によって平氏一門の台頭し武士の世になったことを考えれば、鳥羽天皇の思惑が歴史を変えたとも言えるでしょう。辞世の歌からは後の激動を感じさせるような、緊迫した様子を感じることはできません。鳥羽天皇は後の反乱を見ることなく崩御したので、当然なのかもしれませんが。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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