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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Cor Cordium

心の心

パーシー・ビッシュ・シェリーの墓碑銘。パーシー・ビッシュ・シェリーはイギリスのロマン派詩人。サセックス州ウォーナムのフィールドプレースに富裕な貴族の長男として生まれる。早くからギリシア・ラテンの古典にディドロ、ヴォルテール、ドルバックらの啓蒙思想、ウィリアム・ゴドウィンの『政治的正義』などを読んで思想の形成を行う。イートン校在学中は上級生の「学僕(フォギング)」となる習慣に反抗し、「気違いシェリー」とあだ名されている。オックスフォード大学在学中は読書にふけるかたわら詩作を試みたが、愛する従妹がシェリーの懐疑主義を恐れたあまり恋愛は破れ、失望しつつ因習を打破しようという気概に燃えたあまり1811年『無神論の必要(Necessity of Atheism)』というパンフレットを書き、オックスフォードの書店で売り出すといった挙に出て、放校となる。同じ年に妹の学友ハリエット・ウェストブルック(Harriet Westbrook, 1795-1816)の学校での不遇に同情し、主義であるところの「結婚の鉄鎖」への批判を抑えて彼女と結婚する。ついでアイルランドやウェールズを放浪し、カトリックの解放を訴えたパンフレットを書く。行く先々でイギリス官憲が危険思想家シェリーの動きをひそかに監視していたとも言われている。妻やその姉との不和が深刻になった1814年、シェリーはロンドンのウィリアム・ゴドウィン邸に足しげく通っていた。そこでゴドウィン家の娘メアリと恋に落ちる。このときシェリーには身重の妻ハリエット(Harriet Shelley, 1795-1816)と二人の間にできた娘アイアンス(Ianthe Shelley, 1813-76)がいた。シェリーはメアリを事実上の妻とし、本妻ハリエットを「霊の妹」として三人仲良く暮らしたいと大まじめで提案し、ハリエットに深刻なショックを与える。シェリーとメアリは、道ならぬ恋に対して予想外に激怒するゴドウィンのもとを離れ、大陸へ駆け落ちした。1814年7月28日のことである。メアリの妹(但し、血縁関係はない)クレア・クレモントも一緒についてきた。一行はナポレオン戦争で荒廃したフランスを抜け、スイスのルツェルンへ到達したが、金に困り、ライン川下りをしてイギリスに帰国した。イングランド南部のケント州に着いたのは同年9月13日のことだった。一行はロンドンへ戻り、家を借りて3人で住んだ。2年後の1816年、シェリーとメアリとクレアの3人は、スキャンダルまみれの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン卿を頼って再び大陸へ出発した。メアリは前年にシェリーとの間の最初の子を生後11日で亡くしたのだったが、このときは生後3ヶ月の男児ウィリアムを抱えていた。またしても一緒についてきたクレア・クレモントはバイロン卿の子を身篭っていた。一行がスイス、レマン湖畔にバイロン卿が借りていた別荘ディオダティ荘(Villa Diodati)に到着したのは1816年5月14日のことだった。メアリはこの館で小説『フランケンシュタイン(Frankenstein)』の着想を得ている(ディオダディ荘の怪奇談義)。1816年12月10日、シェリーの本妻ハリエットの遺体がロンドンのハイド・パーク内サーペンタイン・レイクで発見される。入水自殺した模様。シェリー以外の男の子供を身篭っていた。 その20日後の12月30日、シェリーとメアリはロンドンの教会で結婚する。1818年、シェリーはメアリを連れてイタリアに赴き、フィレンツェ、ピサ、ナポリ、ローマなど各地を転々としながらプラトンの『饗宴』を翻訳したり、大作『縛を解かれたプロメテウス(Prometheus Unbound)』を書き進めた。1821年、イギリス詩人ピーコックの説に反論して書いた『詩の擁護(A Defence of Poetry)』はシェリーの散文による代表作である。同年に歿したキーツの死を哀悼して『アドナイス(Adonais)』と『ヘラス(Hellas)』を刊行。1822年7月8日、ジェノヴァの造船業者に特注で建造させた帆船エアリアル(Ariel)に乗り、リヴォルノからレリチへの帰途についた数時間後、スペチア湾ヴィアレッジョ沖で突然の暴風雨に襲われ船が沈没した。発見されたときは息がないばかりか、身元確認も困難なほど無残な水死体となっていた。上着のポケットにはソフォクレス戯曲集とキーツの詩集があったという。

シェリーの奥さんのメアリー・シェリーはイギリスの女流小説家で、『フランケンシュタイン』の作者として有名です。1816年スイス、レマン湖畔に詩人バイロン卿が借りていた別荘ディオダティ荘に、シェリーら5人の男女が集まりましたが長雨の退屈から、ガルヴァーニ電気の可能性、生命の伝達、死者の蘇生、エラズマス・ダーウィン博士の生命実験といった、人造生命の可能性について語り合いました。ある日、一行はドイツの怪奇譚集『ファンタスマゴリア』のフランス語訳を朗読していたが、「皆でひとつずつ怪奇譚を書こう(We will each write a ghost story.)」とバイロン卿が一同に提案しました。バイロン卿は短いエピソードを書き、後に詩集に収録しました。このエピソードを主治医のポリドーリが小説として膨らませ、バイロン作の短編として発表し話題になったのが『吸血鬼(The Vampyre)』(1819年)です。一方、シェリーは途中で投げ出してしまうが、メアリはこつこつと書き続け、1年間かけて長編小説として発表しました。それが『フランケンシュタイン、或いは現代のプロメテウス(Frankenstein; or The Modern Prometheus)』(1818年)です。シェリーはマッド・シェリーとあだ名されるほどの奇と奔放な情勢遍歴の持ち主で、あまりに自由への希求が強すぎたため、その反逆的な生き方もあいまって、生前高く評価されることはありませんでしたが、死後数世代にわたって、イギリスはもとより世界の詩人たちに大きな影響を与えました。墓碑銘は簡潔な言葉ですが、意義深いものとなっています。死んでも心だけは不滅であるということでしょうか。またシェリーの墓碑銘には他にもシェリーが生前愛誦していたシェイクスピアのテンペストの次の句が刻まれています。Nothing of him that death fade/But doth suffer a Sea-change/Into something rich and strange.
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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まとめtyaiました【今日の辞世の句】

Cor Cordium心の心パーシー・ビッシュ・シェリーの墓碑銘。パーシー・ビッシュ・シェリーはイギリスのロマン派詩人。サセックス州ウォーナムのフィールドプレースに富裕な貴族の長男として生まれる。早くからギリシア・ラテンの古典にディドロ、ヴォルテール、ドルバック?...

まとめwoネタ速neo | 2012/05/27 00:21

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