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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

霜の夜を思い切ったる門出かな

武藤章の辞世の句。武藤章は昭和の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。極東国際軍事裁判(東京裁判)で唯一中将として絞首刑判決を受けた。熊本県白水村の地主の家に生まれる。済々黌中学、熊本陸軍地方幼年学校を経て、1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・田中新一・山崎保代らが同期。1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎らが同期。1937年(昭和12年)、盧溝橋事件に際して参謀本部作戦課長として、不拡大方針をたてた作戦部長石原莞爾とは反対に対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として赴いた。1938年、北支那方面軍参謀副長に転任した。1939年(昭和14年)に少将に進級後、陸軍省軍務局長となり、対米英戦争に反対した。開戦後は早期終結に尽力したため、東條英機や鈴木貞一、星野直樹らと対立し、1942年(昭和17年)にゾルゲ事件の発覚により左遷され、近衛第2師団長(スマトラ・メダン)となる。1944年(昭和19年)に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。これは第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望によるもので、フィリピンの地で終戦を迎えた。終戦の際、山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地で降伏し、捕えられた。山下らが起訴されたマニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人補佐として出廷し山下らの弁護につとめた。しかしこの裁判ののち、極東国際軍事裁判(東京裁判)に逮捕起訴されるため日本に戻された。東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受ける。東京裁判で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけである。死刑の理由については、フィリピンでの捕虜虐待が最重要なものとしてあげられた。しかし前述のように武藤はフィリピン現地での、捕虜虐待などを取扱ったマニラ軍事裁判に訴追されることなく弁護人補佐としてかかわっており、この死刑判決はきわめて矛盾したものとして指摘されることが多い。武藤は対中国戦争に対しては拡大積極派であったが、盧溝橋事件当時は地位は作戦課長と低く、A級戦犯として処刑されるほどの責任があったとは考えられない。また対米英開戦には陸軍首脳で最も強硬な反対派であったし、判決文で死刑理由とされたフィリピンの現地での捕虜取り扱いの問題に関しても、前述のように、フィリピン現地の裁判では起訴も逮捕もされていない。このため東京裁判の七人の死刑囚の中で、広田弘毅と並んで、判決当時より、死刑判決を受けるべき人間ではなかったといわれる被告である。武藤の死刑の理由については、検察側の隠し玉的証人として法廷を驚かせた田中隆吉元陸軍少将の「あの男が軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という証言によるものだという説、また開戦時の東條の腰ぎんちゃく的存在だったとみられたからだという説などがある。しかし前述のように東條と武藤は開戦後すぐに仲たがいしており、死刑を免れた鈴木貞一や星野直樹らの方がよほど東條のイエスマンであった。東條英機は判決後武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と意外の感を漏らしたとも言われる。また武藤と田中は互いに相手に対して嫌悪感をいだいており、これが田中の証言につながったというふうに説明されることが多い。武藤は田中が軍部内の動きを法廷で暴露し自分を叩く証言をしたことについて、笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったという。これと関連があるのか不明だが、田中は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神不安定の状態に陥り、何度か自殺未遂を起こしている。1948年(昭和23年)12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑に処された。1978年(昭和53年)、靖国神社に合祀された。

武藤章は他にも「散る紅葉 吹かるるままの行方哉」という辞世の句を残しています。また、次のような詩も書き残しました。「西の御殿に 火急な御召し 陸は遠み 船には弱し ままよ船頭さん 夜中じゃあるが 向う岸まで お願い申す 西の殿様 気のよいお方 御馳走たくさん 下さるだろう 還りゃ気ままに 一人で渡る お酒みやげじゃ 寝てござれ」 とあります。中将で死刑になったのはこの人だけですが、戦争の罪ということを考えるとどのあたりで線引きがされるべきなのかは微妙ですね。特に武藤は上記の通りフィリピンでの、捕虜虐待などを取扱ったマニラ軍事裁判に訴追されることがなかったのに、東京裁判では捕虜虐待の罪により死刑判決を受けるという矛盾した判決で死刑になっただけに、不当な判決ではなかったのかとも思えます。句の方は死に赴くことを霜の夜の門出に例えたもので、死を覚悟して詠んだものでしょう。武藤は対米開戦には慎重派だったという話もありますが、全てが決してしまった後ではどうにもならないものです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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まとめtyaiました【經の辞世の句】

霜の夜を思い切ったる門出かな 武藤章の辞世の句。武藤章は昭和の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。極東国際軍事裁判(東京裁判)で唯一中将として絞首刑判決を受けた。熊本県白水村の地主の家に生まれる。済々黌中学、熊本陸軍地方幼年学校を経て、1913年(大正2年)陸軍士...

まとめwoネタ速neo | 2012/06/08 16:04

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