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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

浮き世をば今こそ渡れもののふの 名を高松の苔に残して

清水宗治の辞世の句。清水宗治は、戦国時代の武将。備中国高松城主。通称は長左衛門。三村氏、毛利氏に仕えた。清水宗則の子。三村氏の有力配下石川久智の娘婿となり、子供に宗之、景治、兄に宗知(月清入道)がいる。天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる(誕生月日は不詳)。幼名は才太郎といった。備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに高松城の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。また、永禄8年(1565年)に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。天正10年(1582年)、統一政策を進める織田信長の家臣羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する。秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じなかったと言われている。そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれる。この水攻めの最中の6月に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。宗治は信長の死を知らぬまま、その数日後に兄の月清らとともに水上で切腹した。享年45。墓所は山口県光市の清鏡寺にある。

今こそこの世を後にしよう武士の名を高松の苔に残して

清水宗治は日本に切腹の作法を定着させた人です。水上に舟を漕ぎ出して、切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り介錯人に首を刎ねられた清水宗治の作法は見事であるとして、それを実際に見た武士達の賞賛を受けました。秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところでしたが、「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれています。また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したそうです。これ以降、武士にとって切腹は名誉ある死という認識が広まり、また刑罰としても切腹を命じる習慣が広まりました。後に秀吉は、豊臣秀次、千利休らを処罰するにあたって、切腹を命じています。ちなみに日本で初めて切腹をしたのは、藤原保輔(ふじわらのやすすけ)で、988年(永延2年)に事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切って死んだそうですが、己の責任を取るという切腹の意図があったのかは不明です。現在認識されている意図での切腹を初めて行ったのは、平安時代末期の武将源為朝であるとされています。清水宗治は名将だっただけに、辞世の歌も堂々としたものになっています。忠義に厚かった彼の人格をも伺える歌と言えるのではないでしょうか。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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