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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

やすく行道こそ道よ是やこの これそまことのみちに入けり

松井康之の辞世の句。松井康之は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。松井正之の次男、松井友閑の甥。興之、興長の父。幼名は新助、胃助。官位は佐渡守、式部大輔。康之は京都郊外の松井城に生まれた。松井氏は康之の曽祖父の松井宗富が8代将軍・足利義政に仕えて以来、代々室町幕府の重臣として仕えていた。松井家は代々山城守に任ぜられることが多く、父は山城守正之。康之は当初は第13代将軍・足利義輝の家臣として仕えたが、永禄の変で義輝と兄・勝之が松永久秀らによって暗殺されると、細川藤孝と行動を共にし、後に織田信長の家臣となった。だが、実際には細川藤孝の家臣であったと言われている。天正9年(1581年)、羽柴秀吉が鳥取城攻めを行なった時には水軍衆を率いて秀吉方の付城に兵糧を入れ、鳥取城に兵糧を入れようとしていた毛利水軍を撃退、毛利の将・鹿足元忠を討ち、その勢いで伯耆・泊城を攻めるなど活躍。信長から賞賛されたという(細川家記、松井家譜)。天正10年(1582年)の本能寺の変後、藤孝が出家すると子の忠興に仕えた。天正13年(1585年)の佐々成政征伐(富山の役)でも水軍衆を率いて活躍したという。以後も忠興と共に小田原征伐や文禄・慶長の役に参加している。朝鮮出兵においては長男・興之が戦死した。戦国時代に細川家は丹後国の領主となり、康之は丹後松倉城(久美浜城)を任せられた。松井一族の働きぶりをみた豊臣秀吉は、康之を石見半国18万石の大名にとりたてると申し出たが、康之はこのまま細川家に仕えることを希望して辞退した(寛政重修諸家譜)。しかし事件が起こった。細川家が秀吉から関白・豊臣秀次の謀反連座の疑いをかけられたのである。秀次からの借銀の返済や、秀次縁者に嫁していた忠興の娘御長(おちょう)差出要求に対して康之が奔走し、事なきを得た。これに感謝して、忠興は娘こほ(11歳)を康之の次男新太郎(後の興長)の妻とした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは忠興と共に東軍に与する。当時は忠興の飛び領であった豊後杵築城に城代・有吉立行と共にいた。康之は丹後へ戻るよう忠興より命を受けたが、既に戻れる状況下になかったため、杵築に留まる。そして杵築城を攻めてきた大友吉統の攻撃を防ぎきり、救援に来た黒田如水と合流、石垣原の戦いで勝利した。この功績により戦後、忠興より2万6000石の知行と、速見郡の御領所1万7000石を預けられた。慶長17年(1612年)に死去。享年63。家督は興長が継いだ。戦国武将としてだけではなく、千利休や津田宗及と並ぶ茶人でもあったと言われている。子孫は代々徳川家直参の身分を持ち、熊本藩の2万8000石の筆頭家老(別格家老家)であり、さらに代々肥後八代城主に封じられた(一国一城制の例外)。

簡単に行く道こそが道なのだこれこそが正にまことの道に入ったんだな

松井康之の人生のハイライトは石垣原の戦いでした。石垣原の戦いでは、松井康之は実相寺山に布陣していました。黒田勢を大友勢が実相寺近くまで追撃すると、松井康之の陣に攻撃を掛けましたが多勢と見て山麓の黒田の陣に矛先を変えてこれを圧倒しました。ここに黒田勢の二番備の野村市右衛門・井上九郎右衛門と松井康之勢が救援に駆けつけ大友勢を打ち破り、夕方までに合戦は収束したそうです。この活躍により松井康之は大名となり、茶人としても名を残すことができました。武将としてもまあまあな人生だったので、辞世の句は求道的な句となっています。死に面して真の道に入ったという思いがあったのでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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