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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

(オレンジジュースを病院で飲んだ時に)
It tastes bad.

不味いわ。

マーガレット・ミッチェルの最期の言葉。マーガレット・ミッチェルはアメリカの小説家。長編小説『風と共に去りぬ』で知られる。ミッチェルはジョージア州アトランタで生まれた。彼女の幼年期は南北戦争を生き抜いた母方の親類の影響を大きく受けた。彼らは戦争に関する全て - 南部連邦支持者が全てを失ったことを除いて - を彼女に伝えた。彼女が全てを知ったのは10歳のときであった。彼女は1918年にワシントン女学院を卒業し、その後医学を志しスミス女子大学に入学する。しかしながら1919年1月に母親がその年流行したインフルエンザで死去し、ミッチェルは学業をあきらめアトランタへ戻った。この出来事は『風と共に去りぬ』でスカーレットの母親が腸チフスで死去し、タラへ戻る場面の元となった。彼女はアトランタで『アトランタ・ジャーナル』に入社し、日曜版のコラム執筆者となった。1922年に彼女はベリアン・「レッド」・アップショーと結婚する。しかしながらレッドは酒の密売人であり、彼らは間もなく離婚する。彼女は1925年7月4日にアップショーの友人であったジョン・マーシュと再婚する。ミッチェルはくるぶしの骨折で寝たきり生活を送っていた1926年、『風と共に去りぬ』を書きはじめたと伝えられている。夫のジョン・マーシュは彼女の気晴らしにと図書館から歴史書を借りてくるのだったが、あるとき「ねえ、そんなに本が好きなら、今度は自分で書いてみたら?」と言った。南北戦争の豊富な知識を持っていた彼女は、それを背景として自分の人生体験を叙事詩に綴っていった。執筆には旧式のレミントン・タイプライターが使われた。当初、主人公の名前はパンジー・オハラであり、オハラ家の領地であるタラはフォントノイ・ホールと呼ばれていた。マーシュの協力的な姿勢も手伝って、ミッチェルは療養中の楽しみを創作に見出した。彼女は最終章から書き出し、章を飛び飛びに書き進めるなど、独特な執筆手法を取っていた。ときどき、夫に原稿を読んでもらっていたものの、山積みになった原稿にタオルで覆いをしたり、戸棚やベッドの下に置いて、他人の目には触れないようにしていた。1929年にはくるぶしは完治し、小説もほぼ完成していたが、彼女自身は創作活動への意欲を失っていた。1935年、アトランタの一主婦として生きていた女性の運命を一変させる出来事があった。当時、南部地域で有望な作家を探していたマクミランの編集者、ハワード・ラザムがミッチェルのもとを訪れたのである。ラザムの同僚が2人の共通の友人であり、ミッチェルにアトランタを案内してもらう予定であった。すっかり彼女に惹かれたラザムは、これまでに何か書いたものはないかと尋ねた。彼女は困惑した。かつて新聞社に勤め、プロの書き手の意識を持っていた彼女にとって、出来損ないの古い原稿を編集者に見せるなど、思いも寄らないことであった。それでもラザムは「もし何か書いたら最初に読ませてください」と懇願するのだった。後日、この話を友人にしたところ、「あなたが本を書くなんてあり得ない話よね」と笑われ、腹を立てた彼女は、自宅に帰るとボロボロの封筒から古い原稿を引っ張り出した。 The Georgian Terrace Hotelに着いたときには、ラザムはちょうどアトランタを発つために荷造りをしていた。「原稿があるわ―気が変わらないうちに持って行って」。この原稿は小柄な作家の背の高さ以上の分量があったため、ラザムはスーツケースを新たに買い足さなければならなかった。後になってミッチェルは自分の大胆な行動を振り返り、背筋が寒くなる思いがした。そこで「気が変わりました。原稿は送り返してください」と書いた電報を送ったが、ラザムは原稿を読んで、未完成で荒削りな部分はあるが大ベストセラーになる作品だと確信していた。彼女は原稿の代わりに、小説の出版を熱望するラザムの手紙を受け取り、続いてマクミランから稿料の前渡し分を受け取った。小説は1936年に完成したが、彼女は最後まで第1章を書かなかった。6月30日、『風と共に去りぬ』は出版され、3年後にはデビッド・O・セルズニックによって映画化された。1939年12月15日、アトランタでプレミア上映会が開かれている。彼女は1949年8月11日の晩、マーシュとアトランタのアーツ劇場に行く途中、ピーチツリー街を横断時にヒュー・グラビットという非番のタクシー運転手にはねられた。彼女はすぐに市内のグレーディ記念病院に運ばれたが、この事故の際の傷が元で5日後に死去した。グラビットは飲酒運転であり、過失致死で有罪となり、40年の重労働が宣告された。グラビットはタクシー運転手だが、当日は非番で自家用車を運転していたのであり、ミッチェルはタクシーにはねられたのではない。しかし報道はこれをタクシー事故として煽りたて、ジョージア州のハーマン・タルマッジ知事(当時)は、以後タクシー運転手の認可規制強化を発表するまでに至っている。この事故の目撃者は、ミッチェルが確認せずに道に飛び出したと証言しており、彼女の友人は彼女がしばしばそのような振る舞いをしたとしたため、運転手の有罪についてはいまだ論争となっている。マーガレット・ミッチェルはアトランタのオークランド墓地に埋葬された。生涯で発表した作品は『風と共に去りぬ』のみで、彼女の遺志により未発表の原稿は破棄されたと言われる。ミッチェルが執筆当時住んでいた家はアトランタの中心部にあり、今日ではThe Margaret Mitchell Houseとして観光名所となっている。アトランタの数マイル北のジョージア州マリエッタには小説と映画を対象にした博物館、Scarlett On the Squareがある。撮影に使われた衣装や台本など、多くの関連物を展示しており、マーガレット・ミッチェル自身が収集した『風と共に去りぬ』の外国語版も陳列されている。このほか、The Road to Tara博物館がクレイトン・カウンティー(アトランタの南にあり映画ではタラのロケ地となった)、ジョーンズボロの商業地区にある。

マーガレット・ミッチェルは生涯に『風と共に去りぬ』一作しか発表しませんでした。上記の通り彼女の遺志によって未発表の原稿は破棄されたそうなのですが、非常に残念なことに思われます。『風と共に去りぬ』は1936年6月30日に出版されると、翌年ピューリッツァー賞を受賞し世界的なベストセラーとなりましたが、何と言っても1939年に公開された、ヴィクター・フレミング監督の映画が有名ですね。全編で3時間42分という大長編であるにもかかわらず、当時空前の大ヒットを記録しました。アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)、助演女優賞(ハティ・マクダニエル・黒人俳優初)、脚色賞ほか特別賞を含め9部門を受賞しました。また映画では人種問題や奴隷制の描写について問題になると思われる部分が省かれていますが、これはデヴィッド・O・セルズニックという脚本家の意向だったようです。この他にも日本では何度も舞台化され、帝国劇場や宝塚歌劇団で上演されています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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