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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

大神の御魂の前にひれふして ひたすら深き罪を乞うなり

板垣征四郎の辞世の句。板垣征四郎は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、1932年(昭和7年)、関東軍の主導により建国された満州国の執政顧問となる。次いで同国軍政部 最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月~1937 年3月)を歴任する。二・二六事件後の皇道派の掃討のあとは、いわば「東条派」との対立の中で「石原派」の重鎮として、第一次近衛内閣で陸相に就任。宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蒋介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。平沼内閣でも陸相を務めた。しかし「桐工作」では「蒋介石の下野」でなく蒙疆・華北への防共駐屯を求めたり、日本側は汪精衛・蒋介石政府の合作を日本が仲介する事で蒋介石・汪精衛・板垣征四郎の会談を要求したが、実現しなかった。板垣は一度は敵対していた蒋介石と和睦を考えたのである。その後は支那派遣軍総参謀長に転出し、1941年(昭和16年)に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)4月、第7方面軍司令官に就任。終戦は、第7方面軍司令官としてシンガポールで迎え、イギリス軍に身柄を拘束された。 その後連合国によりA級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判開廷初日の1946年(昭和21年)5月3日に、空路東京へ移送された。裁判においては地位と残 虐行為の大物とされ、中国・シンガポールにおける罪を問われ、死刑判決を受けた。最期は1948年(昭和23年)12月23日、絞首刑に処せられた。 死刑が宣告された後、板垣は教誨師の花山信勝に対して「自分のようなものが、この糞土の身を変えて黄金の身とさせてもらえるということは、実に幸福である。ポツダム宣言を実行されて、自分が永久平和の基礎となるならば、非常に幸いであり喜びである」と述べたという。

板垣征四郎人は他にもいくつか辞世の句を残していますが、「とこしえの平和のために身を捨てて 糞土を黄金にかえる嬉しさ」や「さすらいの身の浮き雲も散りはてて 真如の月を仰ぐうれしさ」などの宗教色の強いものとなっています。板垣征四郎は日中戦争のきっかけを作った人ですが、石原莞爾が東条英機から疎まれて予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れたのとは対照的に、A級戦犯として死刑にされてしまいました。辞世の歌は天皇に赦しを乞うのではなく、深き罪を乞いているところに彼の戦争に対する責任感が表れていると言えるでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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