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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

世の中をめぐりもはてぬ小車は 火宅のかどをいづるなりけり

佐久間盛政の辞世の句。佐久間盛政は、戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。玄蕃允。勇猛さから鬼玄蕃と称された。佐久間盛次の子。佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたる。天文23年(1554年) 尾張御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた。佐久間軍記によれば「身長六尺」(約182センチメートル)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。永禄11年(1568年)の観音寺城の戦い(対六角承禎)で初陣。元亀元年(1570年)の越前手筒山城攻め(対朝倉義景)、野洲河原の戦い(対六角承禎)、天正元年(1573年)の槇島城の戦い(対足利義昭)などに参加、戦功を挙げた。天正3年(1575年)、叔父・柴田勝家が越前一国を与えられた際、その麾下に配された。以後、北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った。また、この頃に「鬼玄蕃」という異名がつけられた。天正8年(1580年)、加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代城主となり、加賀一国を与えられた。天正9年(1581年)、勝家が安土城に赴いた留守を狙って上杉景勝らが加賀に侵入してきて白山城(舟岡城)を攻め落とした。この時、救援に向かった盛政が到着したときには既に落城していたが、盛政はそのまま上杉軍に挑みかかり、これを破った。さらに同年、能登国の地侍が景勝の扇動により蜂起して荒山城に籠城した際、前田利家の要請に応じて救援し、城の後詰に来ていた上杉軍を討った。天正10年(1582年)の本能寺の変による信長の没後は柴田勝家に従った。柴田勝家は清洲会議以後羽柴秀吉との対立を深め、天正11年(1583年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。当初、両者は持久戦の構えを取っていたが、従兄弟で勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が密かに盛政の陣に駆け込み、秀吉が大垣に赴いていて留守であることを伝えた。これにより盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案した。当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、「砦を落としたらすぐ戻ること」という条件つきで承諾した。盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を討ち取り、賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導いた。盛政はこの勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと、次に羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかっていた。この後、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴に対して「降伏して砦を明け渡すよう」命令しており、桑山は「抵抗は致さぬが日没まで待って欲しい」と返答、賤ヶ岳砦の陥落も間近であった。しかし、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、日没頃より砦から退去する筈だった桑山隊と合流して攻勢に出た為に賤ヶ岳砦の確保に失敗。この機を待っていた秀吉が、かねてから準備していたとおり強行軍で戦場に戻ってきたため、盛政は敵中に孤立してしまった。この時、前田利家の部隊が動かなかったため、盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれた。結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀に落ち延びようとした。落ち延びる途上、盛政は中村の郷民に捕らえられた。命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言った。引き渡されたとき、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されたが、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返し、周囲をうならせたという。秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘ったが、盛政は織田信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、願わくは派手な衣装を着用の上、引き回しののち刑死したいと願った。そしてそれが秀吉の権威を高めることにつながるとも語ったといわれている。果たして京市中を引き回された盛政は、やがて宇治・槙島で斬首された。享年30。

世の中をめぐり果てることのない小車で、火事の家の門を出たのだな

佐久間盛政には虎姫という娘がいましたが、義弟の新庄直頼の養女となり、後に秀吉の命により中川清秀の次男秀成に嫁ぎ、豊後岡藩主の奥方となりました。その縁で盛政の菩提寺は、大分県竹田市の英雄寺にあります。秀成は虎姫の死後、その悲願を汲んで、5男の内記に盛政の家を復興させました。その子孫は現在まで大分市で続いているそうです。佐久間盛政の最期は肥後一国の大名の申し出を蹴って、自ら引き回しののち刑死を望んだというのだから、かなりかぶいた人だったのでしょう。非常にかっこいい死に様だと思います。辞世の歌の「世の中をめぐりもはてぬ小車」とは輪廻か曼荼羅のことでしょう。曼荼羅は元々円形のシンボルなので、仏の悟りの境地や世界観などを意味しているのかもしれません。「火宅のかど」とは煩悩にまみれた現世のことでしょうか。勇将として戦い抜いた人生だっただけに、最期は現世に対して否定的な態度を取って歌を詠んだのでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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