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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Mozart! Mozart!

モーツアルト! モーツアルト!

グスタフ・マーラーの最後の言葉。グスタフ・マーラーはウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。1860年(0歳) 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827-1889)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837-1889)の間の第2子として、オーストリア領ボヘミア・イーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に出生。夫妻の間には14人の子供が産まれているが、半数の7名は幼少時に死亡している(当時は乳幼児の死亡率が極めて高かった)。長男イージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられる。父親ベルンハルトは独力で酒造業を創業し経営しており、地元ユダヤ人社会の実業家(成功者)であった。私生活においては読書家であった。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。ベルンハルトも、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持つと共に、グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施した。幼いグスタフは、ドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ(当初は自分の酒造業を継がせるつもりだった)、より完全な音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。1864年(4歳) 本人の回想によれば、この頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる。1870年(10歳) 10月13日、イーグラウ市での最初のピアノ独奏会を行う。曲目は不明。1875年(15歳) ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)にてローベルト・フックスに師事。弟エルンストが13歳で没。1876年(16歳) 及び1877年(17歳)演奏解釈賞と作曲賞を受ける。1877年(17歳) ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。1878年(18歳) 作曲賞を受け、7月11日、卒業。1883年(23歳) 9月、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。1884年(24歳) ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。6月、音楽祭でベートーヴェンの《第9交響曲》とフェリックス・メンデルスゾーンの《聖パウロ》を指揮して、指揮者として成功。1885年(25歳) 1月《さすらう若者の歌》を完成。プラハのドイツ劇場の楽長。この年は窮乏を極める。1886年(26歳) 8月、ライプツィヒ歌劇場で楽長。この年《子供の不思議な角笛》作曲。1888年(28歳) この年《交響曲第1番ニ長調「巨人」》生まれる。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。1889年(29歳) 1月、リヒャルト・ワーグナーの《ラインの黄金》と《ワルキューレ》のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得る。2月に父を失い秋に母を失う。1891年(31歳) 4月、ハンブルク市立劇場の第一楽長となる。1895年(35歳) 2月6日、弟・オットーが21歳で自殺。1896年(36歳) シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて《交響曲第2番ハ短調「復活」》、《交響曲第3番ニ短調》を書く。1897年(37歳) 春、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場第一楽長に任命され、10月に芸術監督となる。1898年(38歳) ウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年(39歳) 南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニヒ(Maiernigg)に山荘を建て《交響曲第4番ト長調》に着手(翌年に完成)。1901年(41歳) 4月、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場=現・ウィーン国立歌劇場の職は継続)。12月、「私の音楽を貴女自身の音楽と考えることはできませんか?」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出る。彼女はその後作曲の筆を折る。なお、アルマはツェムリンスキーに作曲を習い、14曲の歌曲を残している(出版:ウニフェルザル出版社)。1902年(42歳) 3月、アルマ・シントラー(23歳)と結婚。2人とも初婚であった。夏にマイアーニヒの山荘で《交響曲第5番嬰ハ短調》を完成。10月、長女マリア・アンナ誕生。1903年(43歳) フランツ・ヨーゼフ1世皇帝から第三等鉄十字勲章を授与される。次女アンナ・ユスティーネ誕生。1904年(44歳) 4月シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに創造的音楽家協会を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニヒの山荘で《交響曲第6番イ短調》を書き上げ、第7番の2つの「夜曲」を作曲。1905年(45歳) 夏、マイアーニヒの作曲小屋で《交響曲第7番ホ短調》第1楽章、第3楽章、第5楽章を作曲して完成に至る。1907年(47歳) 長女マリア・アンナ死亡。マーラー自身は心臓病と診断される。12月メトロポリタン・オペラから招かれ渡米。《交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」》完成。1908年(48歳) 5月ウィーンへ戻る。トプラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて《大地の歌》を仕上げる。秋に再度渡米。1909年(49歳) ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトプラッハで《交響曲第9番ニ長調》に着手し、約2カ月で完成させる。10月、渡米。1910年(50歳) 4月ヨーロッパに帰る。クロード・ドビュッシーやポール・デュカスに会う。8月、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分の傍に居る事を、夜中じゅう確認せざるを得ない強迫症状と、もっとも崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かんできて、かき乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへ来てようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日にミュンヘンで交響曲第8番《千人の交響曲》を自らの指揮で初演。自作自演では初の大成功を収める。1911年(50歳) 2月、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症のため息を引き取った。ウィーンのグリンツィング墓地に葬られた。

グスタフ・マーラーは自分の出自について、「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っていました。マーラーが生まれ育った時期は、オーストリアが長らく盟主として君臨したドイツの統一から除外され、ハンガリーやチェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた時期でした。彼は生涯の大部分をウィーンで送り、指揮者としては高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはこの地では評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲がドイツで初演されました。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに国籍を問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです」と答えたそうです。マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うものが多いのが特徴です。歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多く、交響曲と歌曲の境が余りはっきりしていません。指揮者としてはニューヨーク・フィルハーモニック在任中、演奏する曲に対しては譜面にかなり手をいれたようで、後にこのオーケストラの指揮者となったトスカニーニは、マーラーの手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ」と罵ったという逸話が残されています。マーラーは性格も激しい人だったようで、シェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となり、興奮した二人が「もうこんな家に来るものか」と叫んで出て行くと、マーラーも「二度と来るな!」とやり返すほど険悪な雰囲気となりましたが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は何してるんだ」と気にし出し、二人のほうも何食わぬ顔をして家に来るようになりました。シェーンベルクに対しては臨終の際に「私が死んだあと、だれがシェーンベルクの面倒を見てくれるんだ」と涙したそうで、シェーンベルクの側でも当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称しました。他にも同時代に活躍した交響曲作家としてアントン・ブルックナーと親しくしており、ブルックナーによる和声学の講義を受けていましたが、作曲哲学や思想、また年齢にもに大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが、その友情は生涯消えませんでした。最期の言葉は、死を前にして最も尊敬する音楽家の名前を呼んだのでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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