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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

契りあれば六つの衢に待てしばし 遅れ先だつことはありとも

大谷吉継の辞世の句。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。越前敦賀城主。名前については「吉隆」とも。「業病」(注:当時の認識)を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、永禄8年(1565年)を生年とする説もある。父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である。華頂要略の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官・下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある。いずれにせよ、大名となるには難しい家柄である。母が秀吉の正室の高台院の侍女である東殿といわれ、これを根拠に豊臣秀吉の隠し子とする説もあるが、全くの俗説であり、正確な出自は不詳である。天正始め頃に秀吉の小姓となった[9]。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長より播磨攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える。天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣したが、このときに吉継も従軍している。その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している。その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変で横死した。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議で織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。秀吉と織田家筆頭家老である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃侵攻にも馬廻衆として従軍した。そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2000の兵を率いて従軍、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行している。天正13年(1585年)7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下・刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。天正17年(1589年)に越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられ、敦賀城主となった。天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当した。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、加藤清正や福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や宇喜多家中の紛争を調停している。慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、三千の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した。こうして西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日(10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。陣中にはこの他、織田信長の子織田信吉と織田長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣高木法斎らが加わっていた。吉継は当時業病とされていた病(ハンセン病と云われている)故に輿に乗って軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、予てより小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。

約束したのだから六道で少し待ってください 遅れたり先に行ったりすることはあっても

大谷吉継は大谷刑部という通称の方が有名かもしれません。関ヶ原合戦で豊臣方で戦い、小早川秀秋の裏切りを受けて討死した武将として有名ですが、上記のように実は徳川家康とはむしろ仲が良かった人でした。家康も吉継の才能を高く評価しており、慶長5年(1600年)7月には、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われています。このため、吉継が西軍に与したことを知った家康は、非常に狼狽したという逸話が残っています。このように良好な関係を築いていた家康に対して、大谷吉継が勝てないと分かっていても戦いを挑んだのは、「刎頚の友」と呼ばれるほどの石田三成との友情のためでした。吉継と三成がほぼ同年齢であり、出身も同じ近江であったため仲が良く、天正15年(1587年)に大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきましたが、癩病(ハンセン病と思われるが、梅毒等の異説有り)を患っていた吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったのに、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み気軽に話しかけました。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされています。もっともこの二人には男色関係があったという説もありますが……。負けはしましたが、吉継が「義に厚い名将」として名を広く残した理由は関ヶ原における壮烈な活躍にありますが、元々名将として高く評価されており、「人となり、才智聡頴、勤労倦まず、能く秀吉の心に叶へり」「吉継汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人称して賢人と言ひしとぞ」と記されています。一方裏切った小早川秀秋は関ヶ原合戦後の論功行賞で、備前と美作にまたがる岡山藩55万石に加増・移封されましたが、わずか2年後に21歳の若さで早世しました。小早川家は秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易されています。負けて義人・名将として名を残した人もあれば、勝って裏切り者と呼ばれて早死した人もいるというのは、実に人生の無常を表しているように思えます。辞世の歌の「六つの衢」とは、六道のことでしょう。六道とは仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のことですので、ここでは六道輪廻した先と考えるのが妥当でしょう。この歌からは共に戦い死ぬ約束をしたのだから、あの世で会いましょうという、吉継の忠義の心が伝わってきます。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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