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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Tell them I've had a wonderful life.

彼らに伝えてくれ、私は素晴らしい人生を送った。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの最期の言葉。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはオーストリア・ウィーン出身の哲学者。言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く。その後、小学校教師になるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑むが、結局、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。62才。生涯独身であった。なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、『哲学探究』がよく挙げられる。1889年4月26日にオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれた。祖父ヘルマン・ウィトゲンシュタインは、ユダヤ教からプロテスタントに改宗したのち、ザクセンからウィーンへと転居したアシュケナジム・ユダヤ人商人であり、その息子カール・ウィトゲンシュタイン(ルートヴィヒの父)はこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた。ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)はカトリックだったが、彼女の実家のカルムス家もユダヤ系であった。ルートヴィヒ自身はカトリックを実践したとはいえないものの、カトリック教会で洗礼を受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。ルートヴィヒは8人兄弟の末っ子(兄が4 人、姉が3人)であったが、兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた。一方、家族から引き継いだ負の遺産としては鬱病や自殺の傾向がある。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた。技術面の教育に重点をおいたリンツの高等実科学校(レアルシューレ)で3年間の教育を受けた。この学校に在学しているあいだに信仰を喪失したとウィトゲンシュタインは後に語っている。宗教への懐疑に悩むウィトゲンシュタインに姉のマルガレーテはショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を読んでみるよう薦める。ウィトゲンシュタインが哲学の道へ進む以前に精読した哲学書はこの一冊だけである。ショーペンハウエルに若干の付加や明確化を施せば基本的に正しいと思っていたとウィトゲンシュタインは後に語っている。同じころボルツマンの講演集を読んでボルツマンのいるウィーン大学への進学を希望するが、ボルツマンの自殺により叶わなかった。航空工学に興味を持っていたウィトゲンシュタインは、高等実科学校を卒業した1906年からベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)で機械工学を学んだ。その後、工学の博士号取得のためにマンチェスター大学工学部へ入学。この期間に機械工学と不可分である数学への関心からバートランド・ラッセルの『数学原論』などを読んで数学基礎論に興味を持つようになり、その後、現代の数理論理学の祖といわれるゴットロープ・フレーゲのもとで短期間学んだ。 1911年秋、ウィトゲンシュタインはフレーゲの勧めでケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで教鞭を取るラッセルを訪ねた。哲学について専門の教育をまったく受けていなかったウィトゲンシュタインと少し話しただけで、ラッセルは即座にウィトゲンシュタインの類い稀な才能を見抜いた。1912年にトリニティ・カレッジに入学を認められ、ラッセルやG・E・ムーアのもとで論理の基礎に関する研究を始めた。ウィトゲンシュタインはケンブリッジで成功裡に研究を進めていたが、多くの学者に囲まれたなかでは最も根元的な問題に到達できないという感覚を抱くようになっていた。そのため彼はこの年イギリスを離れたままほとんどケンブリッジへは戻らず、ノルウェーの山小屋に隠遁し、第一次世界大戦が始まるまでの全生活を研究に捧げた。時々ケンブリッジへ行くこともあったものの、書いた原稿をラッセルに渡すだけでノルウェーへとんぼ返りするのが常だった。彼はこのころ書いた論理学に関する論文で学位を取得することを考え、ムーアを通して大学当局へ打診したことがある。規定によると、学位論文にはきちんと註が付いていなければならない(どこまでが先行する研究の引用で、どこからがオリジナルな研究かを示すため)ので、ウィトゲンシュタインの論文は規定を満たさないので通過しないとの返事がムーアから寄せられた。ウィトゲンシュタインは「どうしてそんな下らない規定があるのか」「地獄へ落ちたほうがマシだ」「さもなければあなたが地獄へ落ちろ」とムーアを罵倒した。この一件でウィトゲンシュタインは友人と学位を一挙に失い、取り戻すのは実に15年後のこととなる。ともあれこの時期が生涯で最も情熱的で生産的な時期だったと彼はのちに回顧している。前期ウィトゲンシュタインの主著で哲学界に激震をもたらした『論理哲学論考』の元になるアイディアはこのときに書かれた。 1914年、第一次世界大戦が勃発し、8月7日にウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵になったが、「こんなときに哲学がなんの役に立つのか」との疑問に陥り、しばしば自殺を考えていた。そんなある日、ふと本屋へ立ち寄るがそこには1冊しか本が置いていなかった。それはトルストイによる福音書の解説書であり、ウィトゲンシュタインはこの本を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱した。戦争が終わりウィーンへ戻ったウィトゲンシュタインは『論考』の原稿をヴィルヘルム・ブラウミュラー社へ持ち込んだが、印刷代を自分で持つなら出版してもよいとの返事しか帰ってこなかったため、この出版社からの刊行は断念する。その後もいくつかの出版社へ打診するがいずれもよい返事は得られず、ウィトゲンシュタインは失意の底へ落ち込むこととなる。この年(1919年)の12月、ウィトゲンシュタインはラッセルとハーグで待ち合わせて再会する。二人はこの本について語り合い、その議論に基づいた序文を高名なラッセルが書いて付け加えれば出版の望みは増すだろうというアイディアに達する。予想通りレクラム社が関心を寄せてきたためラッセルは序文を執筆するが、その原稿を見たウィトゲンシュタインは、ラッセルが『論考』を理解できていないことを知りまたも失望する。1920 年、レクラム社からも断りの返事が戻ってきたころ、ラッセルは「私の序文などどうでもいい、イギリスで出版してみてはどうか」と手紙を書くが、もはや『論考』出版への情熱を完全に失い「ご自由にどうぞ」と返信を書くウィトゲンシュタインは再び自殺を考えるようになっていた。ウィトゲンシュタインが哲学への熱意を失い、田舎の小学校教師になったあとも、ラッセルは『論考』出版のために奔走しイギリスのキーガン・ポール社から英訳版の出版契約を、さらにヴィルヘルム・オストワルトが編集するドイツの雑誌『自然哲学年報』にオリジナルのドイツ語版を掲載する契約を取り付けるに至る。この時ドイツ語版は原題 " Logisch-philosophische Abhandlung " のまま出版されたが、これをそのまま英訳すると意味の取りづらいものとなるため、英語版用に新しく題名を考えた方がよいとの指摘により、ラッセルは " Philosophical Logic " という案を寄せたがウィトゲンシュタインは「哲学的論理学」などというものは存在しないと拒否し、ムーアの提案したラテン語の表題 " Tractatus Logico - Philosophicus " を採用した。このタイトルは、スピノザの " Tractatus Theologico-Politicus " (『神学・政治論』)になぞらえたものである。ウィトゲンシュタインがまだ小学校教師をしていたころ、学会では『論考』が話題の的となっていたが、特にウィーン学団の名で知られる研究サークルでは、出版直後の1922年にハンス・ハーンが『論考』をゼミのテキストにもちいてからというもの、『論考』を主題とした講演を行なったり、メンバー同士で1行ずつ検討を加えながら輪読したりするなど並々ならぬ関心を寄せていた。ウィーン学団とは、第一次世界大戦の前後から、マッハやラッセル、ヒルベルト、アインシュタインらの画期的な研究成果に刺激を受けたウィーン大学の若手の学者たちが集まったサークルを母体とする研究グループであり、その中心となったのはモーリッツ・シュリックやルドルフ・カルナップ、フリードリヒ・ヴァイスマンらであり、やがてハーバート・ファイグル、フィリップ・フランク、クルト・ゲーデル、ハンス・ハーン、ヴィクトール・クラフト、カール・メンガー、オットー・ノイラートなど錚々たるメンバーを擁していた。ウィーン学団は論理実証主義を標榜し、形而上学を脱却して科学的世界観を打ち立てようとの志を抱いていた。そのためには論理学と科学、とりわけ数学の基礎に関する徹底的な再検証が必要であると考えて、ラッセルやフレーゲの仕事を熱心に研究していたのである。シュリックはウィトゲンシュタイン本人を、ウィーン学団に引き入れようとの意向をもっていたがこれは叶わず、その後やがてウィトゲンシュタインはカルナップとファイグルに対しては、方法論や関心事だけでなく気質的にも相容れないものがあると感じて距離を置くようになった。ウィトゲンシュタインは学位を取得していなかったが、これまでの研究で博士号には十分だと考えたラッセルの薦めで、1929年『論考』を博士論文として提出した。面接でウィトゲンシュタインはラッセルとムーアの肩を叩き、「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」と言ったという。ムーアは試験官の報告のなかで「私の意見ではこれは天才の仕事だ。これはいかなる意味でもケンブリッジの博士号の標準を越えている」という趣旨のコメントを記している。1939年にムーアが退職し、すでに哲学の天才と目されていたウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の哲学教授となり、その後すぐにイギリスの市民権を獲得した。晩年のウィトゲンシュタインの仕事は彼の意向でアイルランド西海岸の田舎の孤独のなかで行われた。1949年に前立腺がんと診断されたときには、死後に出版されることになる後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』の原稿がほぼできあがっていた。生涯最後の2年をウィトゲンシュタインはウィーン、アメリカ合衆国、オックスフォード、イギリスのケンブリッジで過ごした。1951年、ウィトゲンシュタインは最後の挨拶をしようとした友人たちが到着する数日前、ケンブリッジで死去した。

ウィトゲンシュタインが元々哲学の教育を受けた人ではなかったことは有名ですが、彼の著作を読めば何となく感じるとおり、若い頃は理工学の教育を受けていた人でした。ウィトゲンシュタインの哲学はよく大きく前期と後期の二つに分けられますが、前期は哲学が扱うべき領域を明確に定義し、その領域内において完全に明晰な論理哲学体系を構築しようと志し、『論考』では言語(独: Sprache)の有意味な諸命題すべては、各々世界の諸事態の「像」(独: Bild)であるとして、言語と世界とを平行関係に考えつつその構造を解明しました。後期は彼の死後出版された『哲学探究』の中では、「言語ゲーム」や「家族的類似性」、「規則にしたがうこと」「私的言語の不可能性」「志向性」等の重要な概念についての考察がなれている。世界とは物によって成り立っているのではなく、言語ゲームによって成り立っており、既に価値や行為が言語と結合して存在しているため、言語が完全に独立して存在することはできず、あらゆる語は何らかの言語ゲームにおいて使用されることで意味を持ちます。意味の源泉を「言語の使用」に帰するこうした見解は、意味を「言葉からの表出」とする古典的言語学の観点はもちろん、『論考』時代のウィトゲンシュタイン自身の考え方からも大きくかけ離れていました。最期の言葉は彼が亡くなる 1951年4月29日に、医者の妻に向けて発せられたものでした。上記のように他の多くの偉大な哲学者と同じく、ウィトゲンシュタインもまた極めて鬱病的な精神性を強く持った非常に気難しい人だったようですが、死を前にして自分の人生を肯定する気持ちになっていたようです。これは完全な私見ですが、後期のウィトゲンシュタインは、哲学者たちが自らを苦しめてきた問題は結局のところ「問題」ではなく、「休暇を取った言語」の例にすぎないと示して見せることで、哲学的命題を扱うことによってもたらされる、苦悩や混乱を解決しようとしたのではないでしょうか。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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