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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

ゆめの世をゆめでくらしてゆだんして ろせんをみればたった六文

木喰の辞世の句。木喰(もくじき)は江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家。日本全国におびただしい数の遺品が残る、「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である。生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称する。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧(ゆぎょうそう)などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。木喰の作風は伝統的な仏像彫刻とは全く異なった様式を示し、ノミの跡も生々しい型破りなものであるが、無駄を省いた簡潔な造形の中に深い宗教的感情が表現されており、大胆なデフォルメには現代彫刻を思わせる斬新さがある。日本各地に仏像を残した遊行僧としては、木喰より1世紀ほど前の時代に活動した円空がよく知られるが、円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色である。1718年(享保3年)、甲斐国東河内領古関村丸畑(現在の山梨県南巨摩郡身延町古関字丸畑)の名主伊藤家に生まれる。父は六兵衛で次男。幼名は不明だが、彼の生涯については自身の残した宿帳や奉経帳記録や自叙伝である『四国堂心願鏡』、各地に残した仏像背銘などから、かなり詳細にたどることができる。1731年(享保16年)、14歳(数え年、以下同)の時、家人には「畑仕事に行く」と言い残して出奔(家出)し、江戸に向かったという。『心願鏡』によれば、1739年(元文4年)、22歳の時に相模国(神奈川県伊勢原市)の古義真言宗に属する大山不動で出家したという。「木喰」と名乗るようになるのはそれから20年以上を経た1762年(宝暦12年)、彼はすでに 45歳になっていた。この年、彼は常陸国(茨城県水戸市)の真言宗羅漢寺で、師の木食観海から木食戒(もくじきかい)を受けた。当初「木喰行道」と称したが、76歳の時に「木喰五行菩薩」、さらに89歳の時に「木喰明満仙人」と改めている。木喰が廻国修行(日本全国を旅して修行する)に旅立つのは、木食戒を受けてからさらに10年以上を経た1773年(安永2年)、56歳の時である。以後、彼の足跡は、弟子の木食白道とともに北は北海道の有珠山の麓から、南は鹿児島県まで、文字通り日本全国にわたっており、各地に仏像を残している。確認できる最初期の仏像は1778年(安永7年)、61歳の時、蝦夷地(北海道南部)で制作したものである。つまり、仏像彫刻家としての木喰のスタートは61歳であり、30年後の91歳の時まで制作を続けていたことが、遺品から確認できる。この間、佐渡島に4年間、日向(宮崎県)に7年間留まったのを例外として、1つの土地に長く留まることなく、全国を遍歴した。木喰仏と言えば、特有の微笑を浮かべた仏像が多いが、蝦夷地で制作した初期の作品では、まだ作風もぎこちなく、表情も沈鬱なものが多い。故郷の甲斐国丸畑には60歳、 68歳、83歳の3度帰っている。83歳の1800年(寛政12年)の帰郷は、念願であった回国(日本一周)を果たした後で。同年10月に丸畑へ入る。木喰は甲斐国においてこの時期に最も多くの作品を残しているが、翌寛政14年に丸畑や横手など近在村人の依頼で丸畑に四国堂建立に取りかかり、同年3月から四国八十八箇所霊場にちなんだ八十八体仏のほか弘法大師像や自身像などを含めた九十体あまりの四国堂諸仏を製作し、四国堂に安置した。また、完成後の享和 2年には自身の半生を回顧した『四国堂心願鏡』を著している。四国堂諸仏は木喰晩年特有の群像による微笑仏で、造形的特徴として縁に放射状の刻みをもった頭背を持ち、三部の台座には最上部の荷葉に列弁状の彫刻が施されている。四国堂は大正時代に解体され、安置されていた木喰仏も四散した。1913年に柳宗悦が見た木喰仏も四国堂の旧仏であった。木喰は故郷に安住することなく、85歳にしてまたも放浪の旅に出、91歳の1808年(文化5年)まで、仏像を彫っていたことが遺品からわかっている。91歳の時、甲府(甲府市金手(かねんて)町)の教安寺に七観音像(甲府空襲で焼失)を残し、甲斐善光寺において阿弥陀如来図を書き残してから木喰は消息を絶った。故郷の遺族にもたらされた記録によれば、1810年(文化7年)、93歳でこの世を去ったことになっている。最期の地は、木喰戎を受けた水戸の羅漢寺ではなかったかと言われているが、確証はない。木喰の故郷である山梨県身延町には、彼を記念して木喰の里微笑館が建てられている。

夢の世の中をを夢のように暮らして油断して 旅費を見ればたったの六文

木喰は今では円空と並んで仏教行者・仏像彫刻家として知られていますが、大正期に入るまで完全に忘れ去られていました。木喰を再発見したのは、美術史家で民藝運動の推進者であった柳宗悦です。柳は1924年(大正13年)1月に山梨県池田村(現在の甲府市郊外)を訪れた際、偶然に同家所蔵の地蔵菩薩像、無量寿菩薩像、弘法大師像の3体の木喰仏を見出し、木喰仏の芸術性の高さに打たれました。その後、柳は1926年まで木喰研究を行い、その成果は『全集第7 巻 木喰五行上人』(筑摩書房)に集成されています。「六文銭、冥銭」と言えば永楽銭の事をさし、三途の川の渡し賃とされ、地蔵菩薩信仰における六道にいるとされる六人の地蔵菩薩に渡す六道銭のことです。この歌によると、日本全国を回って仏像を作っても、その功徳は冥途に行くのにギリギリしかなかったようです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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