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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Gib, dass ich meine Johanna wiedersehe.

私のヨハンナにもう一度会わしてください。

オットー・フォン・ビスマルクの最期の言葉。オットー・フォン・ビスマルクは、プロイセン及びドイツの政治家。プロイセン王国宰相(在任1862年 - 1890年)、ドイツ帝国初代帝国宰相(1871年 - 1890年)。ドイツ統一の立役者として知られ、「鉄血宰相」と呼ばれる。プロイセン王国東部の土地貴族であるユンカー階級の出身。1847年から代議士としてプロイセン政界入りした。代議士時代には正統主義に固執するプロイセン保守主義者として活動し、1848年革命で高まりを見せていた自由主義やナショナリズム運動、人民主権の憲法によるドイツ統一の動きを批判した。1851年から外交官に転じ、ドイツ連邦最大の大国オーストリア帝国との利害対立の最前線に立つ中でオーストリアを排除した小ドイツ主義(プロイセン中心のドイツ)統一の必要性を痛感するようになり、オーストリアとの連携を重視する神聖同盟などの正統主義の立場から離れるようになる。保守主義者・君主主義者の矜持は保ちつつ、小ドイツ統一を目指す自由主義ナショナリズム勢力とも手を組む道を模索するようになった。自由主義議員の憲法闘争で議会が紛糾する中の1862年にプロイセン王ヴィルヘルム1世からプロイセン宰相に任じられた。議会で鉄血演説を行ってドイツ統一戦争の意思を示し、対デンマーク戦争と普墺戦争の勝利によってドイツ統一を押し進めたことにより自由主義ナショナリストの支持を獲得していった。普墺戦争勝利後の1867年にオーストリアをドイツから排除した北ドイツ連邦を樹立したが、この時点ではフランス帝国の圧力もあり反プロイセン的な南ドイツ諸邦国は加盟しなかった。しかしフランスと対立を深めることで南ドイツ諸邦国のドイツ・ナショナリズムを高めて支持を取り付け、 1871年の普仏戦争の勝利によって南ドイツ諸邦国も取り込んだドイツ帝国を樹立、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝として戴冠させ、ドイツ統一を達成した。ドイツ帝国建国後は文化闘争や社会主義者鎮圧法などにより反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革や世界で初めて強制加入の社会保険制度を創出するなど社会政策を行った。また巧みな外交によって帝国主義の時代の19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した。しかしヴィルヘルム2世がドイツ皇帝・プロイセン王に即位すると社会主義者鎮圧法や労働者保護立法をめぐって新皇帝と意見がかみ合わず、1890年3月に宰相を辞することとなった。1894年11月27日に妻ヨハンナに先立たれると生への倦怠感を強め、肉体的な衰えが激しくなった。1898年7月30日23 時前に息を引き取った。主治医によると死因は肺の充血だったという。国葬に付すべきとの意見もあったが、生前ビスマルクが派手な葬儀を嫌がっていたことから遺族が断り、フリードリヒスルーの邸宅の後ろの小丘に葬られた

ビスマルクの生涯について書くと、この時代のドイツとヨーロッパの歴史のほとんどを書かなくてはならなくなるため、基本的なこと以外は省略しました。ビスマルクに対する評価は評価する者の思想傾向によって著しく異なるため毀誉褒貶が激しく、保守的・伝統的な歴史解釈に立てばビスマルクは不世出の英雄とされ、一方ビスマルクと敵対した思想からは批判的に捉えられ、究極的にはアドルフ・ヒトラーにつながる存在とされることが多いです。確かにビスマルクは自由主義者や社会主義者を弾圧したり、ロシア国籍、オーストリア国籍のポーランド人をプロイセン領から追放したりということもしていますが、ヒトラーやナポレオンとビスマルクが決定的に違うところは、ビスマルクは20年間ほど独裁的な権力をふるったにもかかわらず、自分が皇帝になろうとはしませんでした。それはビスマルクを宰相に任命し、崩御まで深く信任し続けたプロイセン国王ヴィルヘルム1世の存在があったからでしょう。このようにビスマルクは祖国に対して非常に忠義な人でしたが、対外的にはとても強硬な人で、普仏戦争における講和条約であるフランクフルト講和条約では、アルザス=ロレーヌ地方のドイツへの割譲と50億フランという目の玉が飛び出すような額の賠償金をフランスに飲ませています。このアルザスの喪失は戦争後40年間のフランスの対独行動を決定付け、フランスはアルザスを「失われた州」として固執し、復讐の鬼と化したフランスが第一次世界大戦でその屈辱を晴らしたことはみなさんもよく知るところでしょう。ヴェルサイユ条約はある点ではビスマルクの対外強硬政策の、因果応報によってもたらされたともいえるかと思います。もう一つ、ビスマルクの思想については「現実主義者」と評されることが多いですが、『戦争論』の著者でプロイセン王国の軍人で軍事学者あるクラウゼヴィッツと同様に、ドイツ観念論からの影響が強いです。有名な”Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.”(愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。)という言葉は明らかに経験論をあてこすったものでしょう。ビスマルクは日本とも関係が深く、明治6年(1873年)3月15日、ドイツを訪問中だった岩倉使節団がビスマルクから夕食会に招かれています。岩倉使節団には木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通らその後の日本の歴史を決定付けるような人物が参加しており、彼等に対してビスマルクは「いま日本と親交を結ぼうという国は多いだろうが、国権自主を重んじる我がゲルマンこそが最も親交を結ぶのにふさわしい国である。」と述べました。とりわけ大久保利通はビスマルクに強い感銘を受け、「新興国家ヲ経営スルニハ、ビスマルク侯ノ如クアルベシ。我、大イ二ウナズク」と書き、明治天皇と自分の関係はヴィルヘルム1世とビスマルクの関係であるべしと考え、常にビスマルクたらんと意識し続けたそうです。このようにビスマルクは超人的な努力と才能で世界の歴史を決定し、位人臣を極めまた失脚するという憂目も見るというこの世のあらゆる栄枯盛衰を体験した人でしたが、その最期の言葉は4年前に亡くなった妻に再び会いたいという、実に人間的なものでした。ビスマルクの希望で彼の墓石に刻まれた言葉は「我が皇帝ヴィルヘルム1世に忠実なるドイツ帝国の臣」であり、また『コロサイの信徒への手紙』第3章23節にある「汝等、何事を為すにも人に仕えるためではなく、主に仕えるために行え」という言葉が刻まれています。これはビスマルクが16歳の頃より愛していた言葉でした。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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