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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Nothing, but death.

死以外何もない。

ジェーン・オースティンの最期の言葉。ジェーン・オースティンはイギリスの小説家。イングランド南部ハンプシャー・スティーブントン生れ。18世紀から19世紀イングランドにおける田舎の中流社会を舞台として、女性の私生活を結婚を中心として皮肉と愛情を込めて描き、その作品は近代イギリス長編小説の頂点とみなされている。また英語における自由間接話法(描出話法、free indirect speech)の発達に大きく貢献したことでも知られる。主要作品は、『分別と多感』『高慢と偏見』『エマ』『マンスフィールド・パーク』『ノーサンガー僧院』『説得』の6作品。1775年12月16日に、ハンプシャーのスティーブントンの牧師館で生れた。牧師である父のジョージ・オースティン(1731 - 1805)は9歳で孤児となったが、伯父フランシス・オースティンに助けられ、オックスフォード大学に入った。妻カサンドラ(1739 - 1827)との間にはジェーンの他に6人の兄弟と、姉がおり、長兄のジェームズは父と同じくオックスフォードに入り詩などを発表していて、ジェーンに影響を与えた。次兄のジョージについてはあまり伝えられておらず(言語に障害があったらしい)、三兄エドワードは、裕福な家の養子に入り、四兄ヘンリーもオックスフォードに入っている。五兄のフランシスと弟のチャールズは、共に海軍に進み提督にまで昇進した。姉のカサンドラとは生涯を通して非常に親密な関係で、現存する手紙のほとんどはカサンドラに宛てられている。ジェーンを描いたものとして認められている肖像画は、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに収められたカサンドラの手による彩色スケッチのみである。しかしながら等身大の彩色画がジェーンの一族によって所蔵されており、これは10代の頃のジェーンを描いた本物ではないかと考えられている。1783年にカサンドラととも知り合いのもとへ預けられ、短期間ではあるがオックスフォードおよびサウスハンプトンで教育を受けている。1785年から翌年にかけてはバークシャーのレディングにあるレディング修道院女子寄宿学校で学んだ。当時一般の少女よりも充実した教育を受け、この間に多くの文学作品に触れ、英訳されたゲーテの『若きウェルテルの悩み』も読んだという。1789年には早くも小説の原型を書き始めるようになったが、友人や家族に読み聞かせて喜ぶためであった。ただし、小説は3冊のノートにまとめられたが、この中の2冊目にある「愛と友情」など、すでに特色のあるものも書かれている。1795年、書簡体形式の「エリナとメアリアン」を、翌年には「第一印象」を書いた。「第一印象」は父に勧められて出版社に手紙まで送ったが、至らなかった。1797年11月、「エリナとメアリアン」を下敷きとして「分別と多感」を書き始める。さらに、のち『ノーサンガー僧院』となる「スーザン」にも取りかかり、1803年にはクロスドー社に売った。しかしなぜか出版されず、死後『説得』とともに出版された。1801年夏、家族でデボンシアを訪れた際、生涯唯一の恋をしたといわれる。相手はトーマス・ルフロイといい、晩年その旨を語っていたという。また1802年にはハリス・ビッグ=ウィザーという人物からプロポーズをされた。彼は裕福な若者であったが、「大きくて不器用な」性格をしており、彼女より6歳年下であった。未婚の女は一生父や兄弟に頼って生活しなければならなかった当時のイギリスの中流階級において、この申し込みはまたとない機会であった。ジェーンは一旦プロポーズを受け入れたが、翌日には決心を変え断りの返事をした。1809年に妻を亡くしたエドワードの勧めでチュートンへと移る。エドワードの妻は裕福で、所有していたコテージにおいて生活するようになった。この家は現在オースティン記念館として一般に開放されている。1811年、「マンスフィールド・パーク」を起稿し、さらに『分別と多感』を匿名で出版。さらに1813年1月には「第一印象」をもとにした『高慢と偏見』を出版した。なお、作品はすべて匿名で発表され、親しいものにも明かさなかった。1814年5月には『マンスフィールド・パーク』を刊行するが、読者や文壇からジェーン・オースティンという名前が知られることはなかった。だが1815年10月、『エマ』の出版の直前に、偶然が重なってジェーンの愛読者であったのちのジョージ4世(当時は摂政王太子)にもてなされた。それで急遽『エマ』は献呈されることになった。1816年になると体調を崩しがちになり、現在ではアジソン病に感染していたと考えられている。病状は一進一退を繰り返し、翌1817年には療養のためハンプシャー州ウィンチェスターへと移ったが、その2ヶ月後の7月18日に死去した。その亡骸はウィンチェスター大聖堂に葬られ、1818年に『ノーサンガー僧院』と『説得』が出版された。

オースティンの長編6作品は、全て平凡な田舎の出来事を描いたもので、その題材の範囲はとても狭くごく平凡な人々の日常を見事に描き出した作品が多いです。オースティン自身、田舎に3、4の家庭があれば小説にもってこいの材料だ、と述べていますが、そこでの人間階級を徹底的に描くことで人間性の不変を示し、心理写実主義の先駆ともされています。オースティンの評価は当時から非常に高く、サマセット・モームは、『世界の十大小説』で『高慢と偏見』を選び、「大した事件が起こらないのに、ページを繰らずにはいられない」と評し、平凡な生活の中で、見出した真実味のある多彩な描写は非常に巧みであると論じています。夏目漱石は『文学論』で、「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」と絶賛しています。またオースティンの作品はその親しみやすさからか、これまでに幾度も映画化・映像化がなされてきました。『高慢と偏見』は6本の映画が製作され、『エマ』はこれまでに5回映画化されています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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