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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

為国献身軍人本分

国の為に身を献げるのは軍人の本分である

安重根の遺墨。安重根は朝鮮の独立運動家。当時初代韓国統監を務めていた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)を暗殺したことで知られる。黄海道の道都・海州の両班の家に生まれる。東学党に反対していた安は追われてカトリック教会のパリ外国宣教会のジョゼフ・ウィレム司祭に匿われ、洗礼を受けキリスト教に改宗した(洗礼名は「トマス」)。教育関係の仕事を経た後、1907年の高宗の強制退位と軍隊解散、それに伴う義兵闘争の高まりのなかで危機感を募らせウラジオストクへ亡命、そこで「大韓義軍」を組織し、抗日闘争活動に身を投じる。彼は死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子が聖職者になるように尋ねたりもしている1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。狙撃後、安重根は ロシア語で「 コレヤ ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大きく叫んだ。安重根はその場でロシア官憲に逮捕され、2日間拘留された後、日本の司法当局に引き渡された。留置中に伊藤の死亡を知った際、安は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという。1910年2月14日、安重根は旅順の関東都督府地方法院で死刑判決を受けたが、彼は判決そのものが不当であると憤慨した。裁判を統轄した判事は、死刑執行までに少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていたが、日本政府中央は事件の重大性から死刑の速やかな執行を命じた。安は上訴を行い、担当検察官であった溝渕孝雄へ自らの随筆「東洋平和論」を書き終えるために必要な時間の猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組与えてくれるよう願い出た。3月26日、死刑が執行される。安の死から更に5か月後の8月22日、日韓併合により大韓帝国は消滅した。投獄された安重根の監視を任ぜられた日本人看守の千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいた。ところが、話を重ねるごとに千葉は安の思想に共感を覚えるようになっていった。安は処刑の直前、千葉に向かって「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」と書いて、署名し薬指を切断した左手の墨形を刻印した。そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。千葉は終生、安の供養を欠かさなかった。また、当時の旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉も安の願いを聞き入れ、煙草などの差し入れをしたり、法院長や裁判長に掛け合い、助命嘆願をするなど便宜を図っていた。処刑前日には、絹の白装束を安に贈った。死刑執行後、栗原は安の死を悔やんで故郷の広島に帰った。

安重根ほど日本と韓国で評価の分かれる人物はいないでしょう。安重根は間違いなく『史記』の刺客列伝や忠臣蔵の系譜に連なる、復讐の暗殺者です。安重根について語るには、「正義の反対はもう一つの正義である」ということについて考えない訳にはいかないでしょう。安重根はサラエボ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者であったフランツ・フェルディナント大公を暗殺した、セルビア人民族主義者のガヴリロ・プリンツィプに似ています。サラエボ事件は第一次世界大戦を引き起すきっかけとなった事件ですが、プリンツィプは第一次世界大戦後からユーゴスラビアの崩壊まで、セルビアの愛国者として賞揚されました。安重根もまた大韓民国において、抗日闘争の英雄である「義士」と称され、国民的英雄です。1970年にはソウル特別市に安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が建設されました。安重根は伊藤博文を暗殺した動機を、検察官の溝渕孝雄に尋ねられた際に15の理由を挙げましたが、これらの理由はかなり誤解を含んでいます。またこれらの理由が仮に全て正当であったとしても、問答無用で要人を暗殺しても良いということにはならないでよう。ただ、安重根の行為は民族の独立を願う志士の純粋な行動として、幕末の勤皇志士につながるところがあり、日本でも「義士」として評価する人もあり、千葉十七(及びその妻)の墓がある宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺には、1981年に安重根の顕彰碑が建立されました。この辺りが安重根に対しての評価の難しいところであると思われます。最後に憲兵であった千葉十七の為に書いた、「為国献身軍人本分」という言葉についてですが、非常に素晴らしい言葉だと思います。しかし、国の為に身を献げるということが、他者に対して暴力を振るうことを意味するのでしょうか?
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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