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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

My design is to make what haste I can to be gone.

私は大急ぎでいなくなるつもりです。

オリバー・クロムウェルの最期の言葉。オリバー・クロムウェルは、イングランドの政治家、軍人、イングランド共和国初代護国卿。鉄騎隊を指揮してエッジヒルの戦いやマーストン・ムーアの戦いで活躍し、新模範軍(ニューモデル・アーミー)の副司令官となる。ネイズビーの戦いで国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導いた。護国卿時代には独裁体制をしいた。イングランド東部・ハンティンドン州のピューリタンでありジェントリ階級の地主の家庭に生まれる。大伯父にヘンリー8世の元で「行政革命」を実施した政治家トマス・クロムウェルを持つ名家であった。ケンブリッジ大学で学び、1628年に庶民院議員となる。1629年の議会解散後、また故郷に帰って治安判事となり、1631年に土地を売ってセント・アイヴズに移り牧場を経営したが、1638年にエリーに移った。クロムウェルは1640年の短期議会及び長期議会にはケンブリッジから選出された。清教徒革命では議会派に属した。1643年10月ウィンスビーの戦いでは「詩篇を歌い感謝しつつ」突撃し、リンカンシャーから王党を一掃した。その後ヨークシァやニューベリーなどで中小規模の戦いが続いたが、1643年の間は大勢としては国王軍有利に進み、国王軍は何度もロンドンを窺う情勢にあった。1644年7月2日マーストン・ムーアの戦いでカンバーランド公ルパートの騎兵と直面し、潰走させて武名をあげた。しかし議会軍全体はまだ弱く、全面攻勢をかけるほどの力はなかった。1645年頃には、議会軍は、軍隊の編成改革を行い、新編成軍をニューモデル・アーミーとした。オリバー・クロムウェルは、ニューモデル軍結成にあたってはその副司令官となった。1645年6月14日のネイズビーの戦いでは、議会軍は左翼にヘンリー・アイアトン少将、右翼にクロムウェル中将が布陣した。クロムウェル鉄騎隊は、激しい攻撃によってじりじりと国王軍を押し返した。鉄騎隊が国王本隊に迫りつつあり、チャールズは親衛隊を割いて鉄騎隊を追い払おうとした。ところがこの命令が誤って伝わり、親衛隊は後退してしまった。クロムウェルはこの隙を見逃さず、チャールズの歩兵連隊を壊滅させた。いっぽう左翼でもアイアトンの部隊が攻め、国王軍は左右から挟撃され、国王軍は総崩れとなった。この戦いによって、国王軍は壊滅的な損害を被った。議会派はこの勝利をイングランド中に宣伝し、勝利を印象づけた。兵糧や大砲は議会軍に接収され、国王軍の再建は事実上不可能となった。内戦はさらに1年続いたが、国王軍は劣勢を逆転することはできず、チャールズはスコットランドに亡命を余儀なくされた。内乱の終結後議会は軍の解散を求めるが、クロムウェルは議会派の中でも国王との妥協を赦さない独立派に属し、妥協を求める長老派と対立しており、長老派を追放したクロムウェルは独立派議員による議会を主導、1648年に再び決起したチャールズ1世を処刑し、1649年5月に共和国(コモンウェルス)を成立させた。共和国の指導者となったクロムウェルは、急進的な水平派を弾圧、中産市民の権益を擁護する姿勢を取るようになる。重商主義に基づいた政策を示し、同時に貴族や教会から没収した土地の再分配を行った。中産市民は王党派による反革命の可能性もあったため、クロムウェルの事実上の独裁を支持した。クロムウェルは1653年に議会を解散させて終身護国卿(護民官)となり、次のような対外政策を展開した。1654年にオランダと講和し、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと通商条約を結ぶとともに、スペインに対する攻撃を開始し、ウィリアム・ペン率いる艦隊を派遣、ジャマイカを占領した。その後、1655年フランスと和親通商条約を結び、1657年に同盟条約に発展させ、1658年には西仏戦争で英仏連合軍がスペインに勝利、ダンケルクを占領した。一方、国内においては成文憲法である「統治章典」に基づき1654年に招集した第一議会を1655年1月には解散させ、全国を11軍区に分けて軍政長官を派遣し、純然たる軍事的独裁を行った。議会によって国王への就任を2度にわたって望まれるが、これを拒否して護国卿の地位のまま統治にあたった。しかし1658年にクロムウェルがマラリアで死亡すると、跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルはまもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろした。

オリバー・クロムウェルは世界の歴史に散見される、いわゆる「偉大なる独裁者」の一人です。彼の死後数百年経った今も、類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、歴史的評価は分かれています。クロムウェルに征服され、各地で住民の虐殺を行われたアイルランドの人たちからすれば、とんでもない大悪人でしょうが。また護国卿政が終わった後、長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政復古を行うと、クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ再斬首ののち市中で四半世紀晒されるという目にもあいました。現在ウェストミンスター宮殿正門前に、鎧姿で剣と聖書を持ったクロムウェルの銅像があります。最期の言葉については、特に思い残すこともなかったのでしょうか、むしろ早く死を望むような言葉となっています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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