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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味

新門辰五郎の辞世の句。新門辰五郎は江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の妾となる。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門の門番である事に由来する。生年月日は寛政4年3月5日(1792年4月25日)という説もある。武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824年)に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、弘化2年(1845年)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って入牢している。幕府の高級官僚だった勝海舟とも交流があったと言われ、その著書『氷川清話』の中でも触れられている。その一方で、博徒・小金井小次郎を子分のように可愛がった。上野大慈院別当覚王院義観の仲介で一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、娘の芳は慶喜の妾となっている。元治元年(1864年)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行う。慶応3年(1867年)の大政奉還で江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を取り戻し東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野寛永寺の寺の警護に当たっている。上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに静岡に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。明治になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875年)に没、享年75(または83)。

思い残すのは、まぐろの刺身、鰒汁、ふっくりとしたぼぼに、濁り酒の味

新門辰五郎は任侠の人です。「新門」の姓は輪王寺新門を警護したことに由来すします。暴れん坊将軍に登場する辰五郎は新門辰五郎をモデルにしているそうです。新門辰五郎は江戸の侠客の中でも図抜けた資金力を誇り、支配下の的屋が納める場所代などで、押入の床が抜けたとされており、その資金力をもって、幕末期には江戸のほか、京都に2軒、大坂堂島に屋敷を構えていました。幕臣であり教育家でもあった、江原素六は次郎長と新門辰五郎の二人をよく知っており、「共にあくまで男らしくて、胆(きも)が恐ろしく大きい。恐らく、彼らは日本の侠客というものの打止めであろう」と評しました。この辞世の句はある事情で、ちゃんと現代語訳できていません、理由は自分で調べてください。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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