09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

Ich will seciret sein zum Besten meiner Mitmenschen.

私の同胞たちのために秘匿したい

ヨハン・ベルンハルト・バゼドウの最期の言葉。ヨハン・ベルンハルト・バゼドウはドイツ、ハンブルク生まれの教育者、著述家、汎愛主義者。バゼドウは、啓蒙主義の時代の教育改革運動のひとつ汎愛派の指導者の1人である。彼らは社会にとっての個人の有用性、効能性を求めて、社会が自ずと変わっていくような新教育を目指した。バゼドウは、当初ライプツィヒ大学に学び、その後家庭教師や、アカデミーの教師をした。1771年アンハルトのレオポルト3世の招聘を受けてデッサウに赴き、そこで自らの教育学的、改革的な理想を実現しようと試みた。デッサウで、汎愛学院(Philantropinum)という学校、彼の言葉では「人間性の苗床学校」(Pflanzschule der Menschheit)を創立、さまざまな出自の子どもたちを啓蒙教育的な考え方(それぞれの身分階級に応じた)で教育しようとした。1774年12月のこの学校が創立されるや否や、多額の寄付が寄せられ、生徒たちの数もうなぎ上りに増えていった。これらはほとんどが良家の裕福な階層のこどもたちであった。また貧民の子どもたちも助手として受け入れた。更に名のある教師たちが、スタッフとして集められた。たとえば、ヨアヒム・ハインリッヒ・カンペ、エルンスト・クリスティアン・トラップ、クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマンなどである。啓蒙主義の教育者たちから批判された詰め込み学習や体罰のある学校に対して、バゼドウは、初歩の授業の中に遊び的な要素を取り入れたり、直観と自己活動による学習や生きた外国語の学習、母国語を大切にすることなどを強調した。寄宿舎での教師と教え子の密な交わりは、この学校からそのスタイルが生まれてきたといわれる。1774年ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ、ヨハン・カスパー・ラヴァーターと共にラーン川旅行を試みる。1793年デッサウの汎愛学院は、長期に渡る教員スタッフ間の紛争、及び組織上、経営上の問題から閉鎖に追い込まれる。バゼドウは、自分の目的が実現されえないのを見て、1776年に既に組織の院長の座から退いていた。彼は、その上教員集団を一つに束ねて、それぞれに相応しい仕事をしてもらえるように統率できるだけの技量も持ち合わせていなかった。彼が、怒りっぽく狭量な性格をとやかく言われるのは、決して故なしのことではない。バゼドウの宗教観については、著名な画家で、銅版画家のダニエル・チョドウィッキイ(1726年-1801年)が、彼の『ベルリンからドレスデン、ライプツィヒ、ハレ、デッサウを巡る余暇旅行の旅日記、1789年』の中で、デッサウの有名な教育者について書き残している。「彼は過去や現在、そして将来のことについてよく喋る。彼は自身を社会改良家だと告白し、この見解に沿って息子を教育してきたという、・・・」と。バゼドウを三位一体の信仰告白から遠ざけたと見られるこの進歩主義的な信条は、啓蒙主義者が牧師や神父たちと軋轢を生じることになった原因の一つでもあっただろう。 バゼドウの教授法のさらに決定的な基礎となったのが、1774年に刊行した『入門書』(Elementarwerk)である。これは全9巻からなり、教育の根本問題、さらに人間、論理、宗教、そして道徳論、仕事や人間の身分階層、歴史や博物学まで扱ったものである。当時の最も名のある挿絵画家ダニエル・チョドウィッキイが、この本のために版画を制作した。バゼドウはこの『入門書』と合わせて、数学、自然科学的な内容の教科書(Realienbuch)も執筆している。これは文章と絵と専門的な内容を組み合わせたもので、対話方式で内容が展開していくものである。バゼドウは、マクデブルクで亡くなり、ハンブルクとマクデブルクに彼の名を採ったバゼドウ通りがある。

まずこのバゼドウの最期の言葉の訳には問題があります。seciretという言葉がどのドイツ語の辞書にも載っていないのです。ドイツ語に堪能な友人の協力を得て『グリムドイツ語辞典』も見ましたが見つけられませんでした。恐らく英語のsecretの語源であるsecernere(分離する、分離して隠しておく)というラテン語から派生した言葉だと思われます。この言葉はバゼドウが息子に自分の信条に基づいて死ねることを感謝して言ったので、みんなのために自分の進歩主義的な信条を秘密にしておこうという意味で言ったのだと思われますが、残念ながら確証はありません。バゼドウはペスタロッチと同様に偉大な教育者ではありましたが、経営者としての才能は持ち合わせていませんでした。真面目すぎる性格が災いしたのでしょう。上記の通り1774年のラーン川旅行にてバゼドウはゲーテとラヴァーターに出会うのですが、この時3人でとった食事のことを詠ったゲーテの詩「右に予言者、左に予言者、俗世の子どもはまん中に」(Prophete rechts, Prophete links, das Weltkind in der Mitten)は、のちにゲーテの自伝『詩と真実』でも引用されよく知られた詩句となりました。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/337-197c84c2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。