07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

出でて去なば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな

源実朝の辞世の句。源実朝は鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより源氏将軍は断絶した。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集がある。建久3年(1192年)8月9日巳の刻、源頼朝の次男として鎌倉名越の北条時政の屋敷・浜御所で生まれる。幼名は千幡。母は頼朝の流人時代に妻となっていた北条政子。乳母は政子の妹である阿波局が選ばれ、大弐局ら御所女房が介添えをした。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われた。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせた。建久10年(1199年)に父・頼朝が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われた。母・政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、弟の千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に実朝を従五位下・征夷大将軍に補任した[1]。 10月8日、遠江国において12歳で元服し、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。建保元年(1213年)藤原定家より相伝の『万葉集』が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と述べ賞玩する。同日、仲介を行った飛鳥井雅経がかねてより訴えていた伊勢国の地頭の非儀を止めさせる。『金槐和歌集』はこの頃に纏められたと考えられている。建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲った。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に仲章を切り殺したが、これは太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。

出て行って主人のいない家となったとしても 軒端の梅よ春を忘れるな

源実朝は後世歌人としての評価が高く、『小倉百人一首』にも「世の中はつねにもがもななぎさこぐ あまの小舟の綱手かなしも」という歌が収録されています。源実朝は江戸時代の国学者賀茂真淵に称賛されて以来「万葉調」の歌人ということになっていますが、彼の歌集『金槐和歌集』は古今調・新古今調の習作が多いです。確かに源実朝は「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」などの後鳥羽院への忠臣的な歌を詠んでおり、そのこことから戦前は過大に評価されたと言うこともできるでしょう。しかしそうであったとしても、源実朝に非があるとは言えません。何といっても28歳で死んだというのは、歌人として大成するにはあまりにも若すぎますから。源実朝は将軍でありながら、従兄弟の公暁に殺されたという悲運の人なだけに、後世の人からの同情も深かったようです。辞世の歌は明らかに菅原道真大宰府に左遷され京の都を去る時に詠んだ「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」を元に詠まれたのでしょう。『承久記』によると、実朝の最期は「広元やある」と大江広元の名を呼んで落命したそうです。源実朝について、多くの人が色々と書いていますが、評伝で有名なのは小林秀雄の『実朝』と吉本隆明 『源実朝』、小説で有名なのは太宰治 『右大臣実朝』と大佛次郎の『源実朝』です。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/351-6b289fbc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。