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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

七生報国 天皇陛下万才

山口二矢(やまぐち おとや)の遺書。山口二矢は日本の右翼活動家、政治家、民族主義者。1960年10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯。玉川学園高等部を中退し、大東文化大学の聴講生になったが、大学在学中の1960年10月、政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎を刀で殺害した。二矢は1943 年、陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれた。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって彼の名前を二矢と名付けた。彼の父山口晋平は東北帝国大学出身で陸上自衛官の厳格な父(1等陸佐であった。事件3日後の10 月15日依願退職)と優秀な兄のもとに育つ。大衆作家の村上浪六は母方の祖父、文化史家の村上信彦は伯父に当たる。幼年時代から、彼は新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判した。彼は早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは父親の勤務地の関係で、札幌で生活した。彼は1958年(昭和33)玉川学園高等部に進んだが、しかし、父親山口晋平の転勤が発令されたため、彼は札幌の光星学園へ転校した。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入することとなった。1959年(昭和34)5月10日、16歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となる。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、赤尾敏は静かに拒絶した。その後、玉川学園高等部を修了し、杉本広義の紹介で大東文化大学に進学した。事件当時は大東文化大学の聴講生だった。山口は赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、彼は10回も検挙された。1959年12月に保護観察4年の処分を受けた。1960年(昭和35)5月29日、同志党員2人らとともに愛国党を脱党した。1960年6月17日右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した。同年7月1日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加している。10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は'この脇差で殺そうと決心'した。同10月4日、二矢は明治神宮を参拝し、すぐに小林日教組委員長、野坂議長宅に電話、「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、失敗した。同年10月12日、彼は自民、社会(現・社会民主)、民社の三党党首立会演説会において浅沼稲次郎を削除する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていった。1960年 10月12日に山口は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された(浅沼稲次郎暗殺事件)。山口は当時17歳で少年法により実名非公開対象であったが、事件の重大さから名前が公表されている。浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通りである。「汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。」彼は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した。山口は11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した。右翼団体は盛大な葬儀を行い山口を英雄視した。ただし沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎や野坂参三など政治家もリストに加えており、なかには「大東亜戦争」批判を行ったとして三笠宮崇仁親王まで狙っていたという。

山口二矢は日本刺客列伝にその名を残す、右翼少年です。明らかに生まれてくる時代を間違った人物だと言えるでしょう。彼は三島由紀夫の小説『豊穣の海』第二部「奔馬」の主人公、飯沼勲のような人物です。毎日新聞カメラマン長尾靖は、山口が浅沼にとどめを刺そうとする瞬間、突かれて眼鏡がずり落ちる浅沼をカメラに装填してあった最後の一枚で撮影し、その写真はUPI通信社を通じて世界各国に配信され、日本人初のピューリッツァー賞を受賞しました。浅沼稲次郎暗殺事件をきっかけに「子供に刃物を持たせない運動」が始まり、それまでは鉛筆削りや工作に使用していた肥後守をはじめとする刃物が子供から取り上げられ、以後続く刃物規制が始まるというよく分からないことも起こりました。遺書の言葉はステレオタイプなものだと思いますが、「万歳」くらいはちゃんと書いた方が良いと思います。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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