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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Get my swan costume ready. (And then, holding it as she died) Play the last measure very softly.

私の白鳥の衣装を準備してください。(衣装を抱えて死の直前に)最後の処置はとても優しくしてください。

アンナ・パヴロワの最期の言葉。アンナ・パヴロワは20世紀初頭のロシアのバレリーナ。サンクトペテルブルクの貧しい家庭に生まれる。戸籍上は退役兵マトヴェイ・パヴロフと洗濯婦リュボーフィ・フョードロヴナ・パヴロワの娘となっており、本名はアンナ・マトヴェーヴナ・パヴロワ (А́нна Матве́евна Па́влова)。しかし本人によれば、実父はマトヴェイとは別人で2歳のときに亡くなったといい、1913年の新聞報道ではユダヤ系銀行家ラザル・ポリャコフの私生児とも報じられ、真相は謎に包まれている。9歳の頃、母親とともに 『眠れる森の美女』 の初演を観てバレエダンサーを志す。帝室バレエ学校に学び、1899年に卒業する。卒業時の試験が優秀であったため群舞を経ずにコリフェとしてマリインスキー・バレエに入団した。色白・細長の顔に狭い肩幅、美しい足という理想的な体型を持っており、最晩年のM・プティパに才能を認められたため、貧しい家の出であったにもかかわらず順調な昇進を果たした。1903年、プティパによる改訂版『ジゼル』 で成功を収めたほか、バレリーナ昇進後の1907年には慈善公演でM・フォーキン振付の小品 『白鳥』を踊って話題となった。後者はのちに 『瀕死の白鳥』 と呼ばれるようになり、パヴロワの代名詞のようになった。マリインスキーの若きソリスト、V・ニジンスキーと初めて踊ったのもこの頃である。1908年、パヴロワはマリインスキーの舞踏手20名を率いて墺、独、瑞などを巡演した。同じ頃バレエ・リュスの旗揚げを企てていたS・ディアギレフは、看板ダンサーとしてニジンスキーとパヴロワの組み合わせを考え、こちらは1909年6月にパリにおいて 『レ・シルフィード』 公演として実現した。パヴロワは徐々に海外巡演に興味を示すようになり、マリインスキー劇場に籍をおきながら別の団体とともに英国、米国で踊っていたが、 1910年、さらなる海外公演のため2年間の休業を申し出たところ認められず、マリインスキーとの契約は破棄された。1911年、自前のバレエ団パヴロワ・カンパニー (Pavlova Company) を作る。翌年ロンドンに移住し、英国を中心に世界を巡演した。1922年 (大正11年) に全国8都市で行われた来日公演では西洋舞踏を初めて日本に広く知らしめ、のちに日本においてバレエが定着・普及するきっかけを作った。このため、エリアナ・パヴロワ、オリガ・パヴロワ (オリガ・サファイア) とともに日本バレエ界の恩人「三人のパヴロワ」の一人に数えられている。1931年1月、風邪をこじらせたまま巡演に出発し、肺炎とな。症状はさらに悪化し、オランダのハーグ到着後に胸膜炎と診断された。外科手術を勧められたが、手術をすれば舞踏手としては再起不能になると告げられたためにこれを拒否し、闘病の末に亡くなった。50歳没。パヴロワが出演を予定されていた公演は通常通り行われ、『瀕死の白鳥』 の曲が流れると共に彼女がいつも踊っていた軌跡をたどるようにスポットライトが無人の舞台を照らし、観客は彼女の早い死を悼んだという。彼女の名を汚さぬよう、またパヴロワと比較されてしまうのを恐れて、『瀕死の白鳥』 は以後同じロシアの偉大なバレエダンサーマイヤ・プリセツカヤが違う振り付けで踊るまで20年間誰も踊ることがなかった。遺体はロンドンで火葬されたが、遺族によって2001年に、1944年に亡くなった夫のビクター・ダンドレの遺灰と共にモスクワのノヴォジェヴィチー墓地に改葬された。

『瀕死の白鳥』はカミーユ・サン=サーンスによる組曲「動物の謝肉祭」の「白鳥」を用いて、 湖に浮かぶ一羽の傷ついた白鳥が、生きるために必死にもがき、やがて息絶えるまで描いた小作品です。この曲を用いて、ミハイル・フォーキンが1907年にアンナ・パブロワのために振り付けしました。芥川龍之介もこのアンナ・パブロワの瀕死の白鳥を見て絶賛しています。「舞踊は見るのではなく「読む」ものである」とはステファヌ・マラルメの言葉ですが、残された貴重な映像で見る彼女の舞踏は、一つの「詩」のように感じられます。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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