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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

O Liberté, que de crimes on commet en ton nom!

おお自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか!

ロラン夫人の最期の言葉。ロラン夫人はフランス革命のジロンド派の指導者の1人である。ジロンド派の黒幕的存在だったことからジロンド派の女王とも呼ばれた。本名はジャンヌ=マリー・"マノン"・フィリポン=ロラン, ラ・プラティエール子爵夫人(仏: Jeanne-Marie "Manon" Phlipon-Roland, vicomtesse de La Platière)。旧姓はフィリポン、マノンはペンネームだが、夫が内務大臣のジャン=マリー・ロランであったことから、ロラン夫人と呼ばれ、夫と区別してマノン・ロランとも言う。美貌に加えて並外れた知性と教養を持っていたが、平民出身だったために貴族に受けいられず、共和主義者になった。1754年、パリで中流ブルジョワ家庭に生まれる。幼少の頃より英才教育を受けてルソーなどと親しんだ。1776年、後の夫の工業監督官ロラン子爵と交際。1780年、20歳の年の差があったが結婚。以後、妻の影響でロランは政治に関わる。1791年、パリに移住。住居にサロンを開き各界の名士と交流。ジロンド派を形成する。1792年3月、ロランが内務大臣となるが完全に妻の言いなりだった。国王裁判ではルイ16世の敵国内通を公表した。9月、立憲議会成立後の山岳派と対立。1793年、国王処刑後、一部の者がダントンと妥協を図ろうとするがロラン夫人が原因で失敗。6月、抗争激化。夫と子供、愛人を逃がした後、逮捕され投獄される。獄中で回想録を執筆する。11月8日「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残した後、処刑された。逃亡先でその知らせを聞いた夫は自殺した。

全ヨーロッパに影響を及ぼしたフランスの市民革命では、数々の悲劇が行われましたが、ロラン夫人はその中でかなり重要な役割を果たした人です。彼女の率いたジロンド派は、裕福な商工業者をはじめとした上層・中層の市民(ブルジョワジー)を支持層としていました。さまざまな思想を持つ人々が集まる政治クラブであったジャコバン・クラブは、革命を経るにつれて信念や政策によって分裂し、まず立憲君主派であるフイヤン派が、ついで穏健共和派であるジロンド派がこのクラブから脱退し、最終的に山岳派と呼ばれる、急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り主導権を握りました。ジャコバン派という場合は一般的に山岳派を指します。国王ルイ16世一家がパリを脱出し、東部国境に近いヴァレンヌで逮捕されるというヴァレンヌ事件の後、正式に憲法が制定され新しい議会「立法議会」が成立しました。立法議会では、立憲君主制を守ろうとする穏健勢力のフイヤン派と、国王なしの共和制を主張するジロンド派の2派が力を持ちました。ジロンド派内閣は革命維持のため対外戦争に踏み切り、1792年4月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発しました。初期の頃は革命の余波が軍隊におよび、指揮命令系統のないフランス軍は、各地で敗戦を重ねました。そのため、ジロンド派は敗戦の責任を取り、政権をフイヤン派に譲り渡すことになりました。この戦争は、当初は革命への外国の干渉戦争だったのですが、1794年前後を境に形勢は逆転し、後にフランスによる侵略戦争に変貌していきます。対外戦争において苦戦する中、立法議会に代わり国民公会が開催されると、ジロンド派はこの議会において多数を占め、王政の廃止および共和国宣言を採択しましたが、革命の一応の終結を目指すジロンド派と、急進的な革命を推し進めようとする山岳派との対立が激しくなっていきました。経済や軍事面でのジロンド派の失政に対し、議会は山岳派主導に傾き始め、追い詰められたジロンド派は、さまざまな手法で山岳派を陥れようとしましたが、ロベスピエールの先導により、1793年6月にジロンド派の主要メンバーが捕らえられ、ジロンド派の女王ことロラン夫人は処刑されました。彼女の共和主義者になったのは、並外れた美貌と教養を持ちながらも、平民出身であるために貴族達の嫉妬を買い、受け入れてもらえなかったことの恨みによるものでした。ロラン夫人は獄中でその文筆の才をもって非常に美しい文体で、弁明書を書きましたが、裁判でそれを読むことは許されませんでした。裁判の翌日に死刑は執行され、フランス革命を象徴する有名な言葉を述べた後、断頭台の露と消えました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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