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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Adieu

さようなら

ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストの最期の言葉。ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストはフランスの政治家、革命家。ロベスピエールらと共にフランス革命に参加し、彼の右腕とも称された。その美貌と冷厳な革命活動ゆえに「革命の大天使」または「死の天使長」との異名をとった。1767年、ニヴェルネ州ドシーズに生まれる。父ルイ・ジャンは騎士の称号を持つ農民出身の軽騎兵隊大尉、母マリー=アンヌ・ロビノはドシーズの公証人レオナール・ロビノの娘であった。幼少期をヴェルヌイユの司祭だった伯父アントワーヌ・ロビノの元で過ごしたのち、1777年、両親とともにピカルディ州エーヌ県ブレランクールに移る。1785年、ソワソンのオラトリオ派の学院を修了後、1788年にランス大学法学部に入学。入学後1年を経ずして学士号を取得した。1789年にはエロティックな風刺歌「オルガン」を地下出版し、伝統・権威・カトリック教会・国王を批判。追われる身となった。1790年には23歳でエーヌ県の国民衛兵隊長の1人に選挙で選ばれて、その年の7月14日のパリでの連盟祭に参加した。1791年には『革命及びフランス憲法の精神』を発行し、革命の最中にあって最年少の理論家となった。サン=ジュストは25歳の若さで国民公会議員に当選。その生涯において数々の演説を残すが、1792年に8月10日の革命後に行われた国王裁判での「処女演説」がもっとも有名である。その痛烈かつ冷徹な演説により、ルイ16世の裁判の方向性を決定付けた。ロベスピエールの同僚として辣腕をふるい、同派の政策に深く関与した。公安委員会の委員となって治安局を創設し、公会では左派と共に憲法草案作成や行政改革などを行ったが、フランス革命戦争が始まってからは前線視察に多くの時間を費やしてパリを離れていた。ヴァンドーズ法は特にサン=ジュストが実現を望んだ法令であったが、これがプレーヌ派との決裂を招き、失脚の要因になった。1794年7月27日にテルミドールのクーデターで逮捕され、翌日の最後の演説を反対派に妨害されて果たせぬまま、ロベスピエールらと共に処刑された。

フランス革命の大きな特徴の一つとして、やたらと美男美女が出てくるということが挙げられます。サン=ジュストはその残酷さ有能さと相まって、「革命の大天使 (Archange de la Revolution)」などというもの凄いあだ名がつけられ、フランス革命の中で最も人気のある人物となりました。サン=ジュストは名演説家として知られていますが、最も有名なのは国王裁判での「処女演説」です。この演説の中で彼は、「人は罪なくして王たりえない」と主張し、そもそも王であることが罪であるとしました。サン=ジュストは後世の人たちにも大きなインスピレーションを与えたよようで、例えばヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に出てくる、天使のように容姿端麗なABCの友の首領、アンジョルラスのモデルはサン=ジュストです。またアルベール・カミュは『反抗的人間』の中で、サン=ジュストの国王処刑のりろんについてかなり好意的に論じています。しかし日本人でサン=ジュストと聞いて、最初に思い浮かべるのは池田理代子の『ベルサイユのばら』でしょう。主要登場人物ではありませんでしたが、印象的な人物として描かれていました。その他多くのロマン派の画家達のモデルとなり、バレス、マルロー、ユルスナルら文筆家からは省察の対象とされました。博愛家であるとともに処刑人でもあり、純潔であるとともに放蕩人でもあった彼は、恐怖政治の理論家となり、戦争の指導者となり、共和国の思想家となりました。最期の言葉は処刑の前にロベスピエールに向けて言ったそうです。「革命家達に休む場所はない、墓の中を除いては」とはサン=ジュストの言葉ですが、果たして彼に安息の地はあったのでしょうか。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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