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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

三十餘歳 守護人天 刹那一句 佛祖不傳

三十余歳まで 人と天を守護する 一瞬の一句に残す 仏祖より伝えられるにあらず

斎藤義龍の辞世の句。斎藤義龍は戦国時代の武将。美濃国の戦国大名。斎藤氏の第2代当主で美濃一色氏初代。大永7年(1527年)7月8日、初代当主・斉藤秀龍(斉藤利政・道三)の嫡男として生まれる。母は側室の深芳野。初名は利尚ならび高政といった。 天文23年(1554年)、道三が隠居したため、美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となるが、道三は義龍を忌み嫌い、次第に弟の孫四郎や喜平次らを寵愛するようになる。さらに義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとしたことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。弘治元年(1555年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀して、道三を追放し、道三が寵愛する弟の孫四郎・喜平次らを日根野弘就に殺害させた。弘治2年(1556年)、長良川に道三と対戦、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした(長良川の戦い)。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。義龍と多少の戦闘をしつつ信長は撤退した。その後は、貫高制に基づいた安堵状を発給して長年の内乱で混乱した所領問題を処理し、また宿老による合議制を導入するなど、室町時代の体制を生かしながら、戦争に明け暮れていた道三の下では十分実現し得なかった守護領国制の残滓を排して、戦国大名としての美濃一色氏(斎藤氏)の基礎を築いた。後に剃髪して玄龍と号している。斎藤道三の末子である斎藤利治が尾張の織田家に亡命し、織田信長より偏諱を与えられ長龍と改名し美濃斉藤家当主を名乗る。義龍は尾張織田家との戦闘が続くなか京都の将軍家足利義輝より一色氏を称することを許され美濃守護代家斎藤氏より改名、永禄元年(1558年)に治部大輔に任官し、永禄2年(1559年)には足利幕府相伴衆に列せられ戦国大名としての大義名分を得た。さらに南近江の六角義賢と同盟を結び、北近江の浅井久政とも戦う(一色氏は織田信長の根本領地である尾張知多郡と海東郡の分郡守護や北伊勢半国守護を継承した家柄であり、義龍の目指す侵攻路は、それだったとされる)。しかし尾張国の織田信長の侵攻がより激しくなるなどの不利な条件もあり、勢力拡大には結果的に失敗した。永禄4年(1561年)、左京大夫(左京兆)に任じられるが、同年の5月11日に急死した。享年35。後を子の龍興が継いだ。

斎藤義龍は父親である、道三を殺して大名となった人です。義龍は父殺しの汚名を避けるためか、足利氏の一門である一色氏を称して、一色左京大夫と名乗りました。実父は道三ではなく土岐頼芸であるとの説もありますが、信憑性に乏しいです。義龍は道三から「無能」と評されていましたが、長良川の合戦で道三は義龍の卓越した戦略、戦術を目の当たりにし、自身の評価が誤りであったことを認めたそうです。父親の斎藤道三は下剋上を繰り返してのし上がった人物なだけに、独断専行に走るため家臣団の不満が溜まっており、義龍の家督継承は重臣たちによって行われた強制的な当主交代であったという説もあります。義龍は六尺五寸(約197cm)の大丈夫でしたが、父親殺しの罪悪感からの心労でしょうか、35歳で亡くなってしまいました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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