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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Soldats ! Faites votre devoir ! Droit au cœur mais épargnez le visage. Feu !

兵士たち!義務を果たせ!顔は撃つな、まっすぐ心臓を撃て。撃て!

ジョアシャン・ミュラの最期の言葉。ジョアシャン・ミュラは、フランスの軍人で、フランスの元帥、ナポリ王国の国王である。アブキール、アイラウ、ドレスデンなどでの突撃で名を馳せた伝説的な騎兵指揮官として知られる。第一統領ナポレオン・ボナパルトの妹カロリーヌ・ボナパルトと結婚して義弟となり、ジョアシャン=ナポレオン・ミュラと改名した。帝政期には皇族として遇され、ベルク大公爵およびクレーフェ公国の君主(在位1806年 - 1808年)となり、次いでナポリ王国の王位に転じた。イタリア名はジョアッキーノ1世(伊: Gioacchino I, 在位:1808年 - 1815年)。ジョアシャン・ミュラは、旅籠屋を営む傍らタレーラン家の不動産管理人でもあったピエール・ミュラの末っ子(12人兄弟だった)として、カオール近郊のラバスティド=ミュラで生まれた。両親の希望で聖職者になるため神学校に入学するが(このとき後々まで親友となるベシェールと出会っている)、全く不向きで、1787年に女性と駆け落ちして放校された。無一文で放浪していた時にたまたま出くわした騎兵中隊に飛び入りで入隊したことから軍歴が始まり、2年ほどで軍曹にまで出世するが、一時帰郷して小間物屋を開く。風采が良く人気者だったため、郷里のジャコバン派としてかなり有名になったが、やがて軍に復帰し、浮沈を繰り返しつつ若手の騎兵指揮官として頭角を現していった。1792年には少尉になっているが、当時の士官選出は兵士の選挙によっていたので、このことはミュラが部隊でも人気者だったことを示している。1795年のヴァンデミエールの反乱において、パリ市内での大砲奪取任務の参加者を募集していたナポレオン・ボナパルト(当時ポール・バラスの副官だった)と出会い、任務に志願して見事成功させ、王党派の反乱鎮圧に貢献する。ナポレオンはこの功績で脚光を浴びることとなり、ミュラにとっても大きな転機となった。その後、ナポレオンのイタリア遠征に自ら志願して参加し、エジプト遠征では負傷するものの見事な働きを見せ、ナポレオンの側近として、また優秀な騎兵指揮官として名声を確立させた。1800年にはナポレオンの妹カロリーヌと結婚、名実共にナポレオン家の一員となる。1804年には元帥に昇進した。数々の戦いでその騎兵指揮官としての能力を存分に発揮し、ナポレオンをして「世界最高の騎兵」と賞賛せしめたが、高位の軍司令官としては判断力、決断力共に欠け、元帥昇進後あたりから失策が目立ち始める。1806年にベルク大公となり、1808年にはスペイン王となったナポレオンの兄ジョゼフに代わってナポリ王位を与えられ、ジョアッキーノ1世を名乗った。しかし、こうした栄達は彼を保守的・退嬰的にした。また、権力欲が極めて強く、かつ頭が回って気も強い妻のカロリーヌに焚きつけられて、自らの王国を守ろうとする態度が露骨になると共に、ナポレオンとの関係もぎくしゃくし始めた。1812年、ロシア遠征に参加するが、これが大敗に終わると自らの地位保全のために敵国イギリスやオーストリアと勝手に交渉を始め、1814年に至り完全にフランスから離反する。フランスからの離反の決断とともに、イタリア統一を夢想し始めるが、そんな野望が通る筈もなく、ウィーン会議では王位の剥奪が決定された。ミュラはひとたび裏切ったナポレオンの元に戻ることを決意し、イタリア方面での抑えを期待したナポレオンもそれを認めた。しかし、ナポレオンがエルバ島を脱出すると、独断でオーストリアと開戦して大敗し、フランスに逃げ戻った。激怒したナポレオンからは仕官を認められず、ワーテルローの戦いの後に僅かな手勢と共にナポリ奪回の兵を挙げて失敗、逮捕の後に処刑された。

他に類を見ない優秀な騎兵指揮官にして、自ら馬を駆ってサーベルを扱わせれば天下無双。勇気肝力全く欠ける所が無く、どんな乱戦にも真っ先に飛び込み平然と生還する勇者であり、長身で威風堂々とし、甘いマスクと気の利いた弁舌を備えた伊達男。ミュラ自身がデザインした派手な軍服に身を包み戦場を疾駆するその姿は、敵味方問わず感嘆の的でした。であると同時に馬を降りれば優柔不断で軽薄で浅はかであり、大軍を指揮する能力も戦略眼も政治外交能力も彼にはありませんでした。ナポレオンは「彼は敵と対峙したときは世界でもっとも勇敢な男だろうが、会議の席にでも置こうものなら判断力も決断力もない腑抜けに成り下がってしまうだろう。」「彼に授けられた尋常ならざる勇気は、その知性と非常に不釣り合いで、とても一人の人間の中に収まっているとは思えなかった。」と評しています。また大変な女好きで、自らを中世の騎士になぞらえ、そのサーベルには座右の銘「名誉と貴婦人の為に」を刻み、女性からの賛美の視線を何よりの喜びとしていました。彼はおおよそフランス人の持つステレオタイプな特徴を、すべて兼ね備えた究極のフランス野郎でした。元帥同士の人間関係ではベシェールとは親友同士の間柄でしたが、厳格なランヌやダヴーからは忌み嫌われていました。特にランヌとは、ナポレオンの妹カロリーヌとの結婚を巡って競争した間柄でした。この争いは我の強いカロリーヌとは、結婚しなかったランヌの方が良かったと思いますが。ミュラの最期は処刑でしたが、これはフランス国王に復位したルイ18世の、冤罪だったアンギャン公処刑に対する復讐だとも言われています。彼は銃殺隊にその美貌を傷つけられるのを恐れて、「顔は撃つな、まっすぐ心臓を撃て」と命じましたが、数発の銃弾が自慢の美貌を傷つけてしまいました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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