07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん

浅野長矩の辞世の句。浅野長矩は播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下、内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。元禄赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名な大名である。寛文7年8月11日(1667年9月28日)、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にある浅野家上屋敷(現在聖路加国際病院がある場所)において生まれる。延宝3年3月25日(1675年4月19日)に長矩が9歳の幼少で浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。同年4月7日(5月1日)には四代将軍徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。さらに同年閏4月23日(1675年6月16日)には、浅野長治(備後三次藩主)の娘阿久里姫との縁組が幕府に出願され、8月8日(9月27日)になって受理された。浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は吉良義央であった。そして元禄14年3月14日(1701年4月21日)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)がおこなわれる幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。ところが、儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ、長矩が背後から近づいてきて、突然吉良義央に対して小サ刀(実戦用ではなくアクセサリー的な刀)で刃傷に及ぶ。。梶川が書いた『梶川筆記』によれば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだという。しかし浅野は本来突く武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで、しかも側にいた梶川頼照が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達宗春や高家衆、茶坊主達たちも次々と浅野の取り押さえに加わり、高家の品川伊氏と畠山義寧の両名が吉良を蘇鉄の間に運んだ。こうして浅野の吉良殺害は失敗に終わった。刃傷事件はこれまでも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてであった。長矩は庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。

風に誘われて散る花も名残り惜しいけど、それよりもなお楽しかった思い出を、私はいったいどうすれば良いのだろう。

忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の辞世の句です。赤穂藩は今の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町辺りで、たったの五万石ながら塩田の開発で財をなした藩でした。浅野家は文化事業にも力を入れており、古文書の編纂事業をしていたため、日本文学を研究するとよく浅野文庫のお世話になります。訳は多少意訳が入ってます。「春の名残」を何と約すかが肝でしょう。しかし、昔の人はこれから死ぬって時に、どうしてこんなに凄い歌が詠めるのでしょうか?
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/40-9d8f8bf8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。