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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流 
一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺劔 只將一死報君恩

孤軍 援(たす)け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思へば涙 更に流る
一片の丹衷 能(よ)く節に殉ず 雎陽(すいよう)は千古是れ吾が儔(ともがら)
他に靡き今日復た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん

自分の軍だけで助けを得られず捕虜となった 思い返してみても君主の恩を思うと涙が出る
一片のまごころがよく時期に殉じている 唐の安禄山の乱の時に雎陽(河南省の地名)を死守した張巡こそが千年前からの私の同士である
敵方に靡いて、今更また、何をか言うだろうか 大義に立って、生命を捨てることは、わたしの尊ぶところである
わたしの首を斬る三尺の刀を快く受け容れよう ただ一身の死をもって、君主の恩に報いよう

近藤勇の辞世の句。近藤勇は江戸時代末期の新選組局長、幕臣。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。農民・宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。勝五郎は天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始したが、その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵の同志である古高俊太郎を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた(池田屋事件)。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻り。3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走。下総国流山に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭する。中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。

近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされていますが、一説によると同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、同寺には近藤の首塚があります。近藤は口に拳骨を丸ごと咥えこむという変な特技を持っていたことで有名ですが、これは彼が尊敬していた加藤清正が同様の特技を持っており、それにあやかってとのことだそうです。近藤の愛刀が長曽禰虎徹興里だったことは有名ですが、講談などでは「今宵の虎徹は血に餓えている」が決め台詞となりました。また大石内蔵助を尊敬していたため、新選組の隊服を製作する際に赤穂浪士の装束の色を浅葱色に変えた羽織、袴を発案したと言われています(この服装はあまりに目立つため一年ほどで廃止されました)。辞世の漢詩は七言絶句なので、返り点がないと読みにくいかと思いましたので、読み下しにしておきました。なかなか忠臣愛国な詩となっています。おそらくは死を覚悟できたのでしょう、官軍対して言うこともないと言い放っている姿は見事です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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