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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

身はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う

後醍醐天皇の最期の言葉。後醍醐天皇は第96代天皇。大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子。徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位にとも ない皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)に花園天皇の譲位を受けて31歳にて践祚、3月29日(4月30日)に即位。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされる。正中元年 (1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱と呼ぶ。捕虜となった後醍醐天皇は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に遷った(流された)。この時期、後醍醐天皇の皇子・護良親王、河内国の楠木正成、播磨国の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐天皇は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から 派遣された足利高氏(尊氏)が天皇方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。建武の新政は 表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広 範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利 軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天 皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する。後醍醐天皇は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良 県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。最期は各地に自分の皇子を送って北朝方に 対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年 52(満50歳)。

後醍醐天皇については同時代人であり天皇の側近でもあった北畠親房が、『神皇正統記』において保守的公家観から新政策への批判を加えています。近世においては後醍醐天皇を不徳の君であるとする評価が定着し、徳川光圀によって編纂が開始された『大日本史』では北朝を正統とする立場から、後醍醐天皇を不徳としています。また新井白石は『読史余論』において、王朝政治における累代の天皇の失徳が武家政権成立の過程であるとし、後醍醐天皇をその末尾に位置付けています。明治に入って南朝が正統とされると後醍醐天皇の評価が高まり、逆に足利尊氏が天皇に叛いた逆賊・大悪人とされてしまいました。後醍醐天皇は、延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代であった、醍醐・村上天皇の治世を理想としており、天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるのを、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号とし、息子を後村上天皇と定めていました。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られます。最期の言葉の出典は、軍記物語である『太平記』なので、史実とするのは難しいのですが、一般的によく知られているものではあります。後醍醐天皇の陵墓は奈良県吉野郡吉野町吉野山の如意輪寺内にある円墳の塔尾陵で、通常天皇陵は南面しているのですが、後醍醐天皇陵は北面しています。これは北の京都に帰りたいという、後醍醐天皇の願いを表したものだそうで、後醍醐天皇の本心はこの最期の言葉とそう変わらなかったのではないでしょうか。歴代天皇の中でも後醍醐天皇は特に波乱に満ちた人生を送った人ですが、賢い人にありがちな周りの人間と協調するのが苦手な人だったようです。ただこの人のしぶとさと言うか、不屈の精神は見習いたいものです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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