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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Mother of the Civil Rights Movement.

公民権運動の母

ローザ・パークスの墓碑銘。ローザ・パークスは、アメリカ合衆国の公民権運動活動家。1955年にアラバマ州都で公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反のかどで逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで彼女は米国史上の文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は米国内のみならず国際的にも高く評価されている。ローザ・ルイーズ・マコーリーは、アラバマ州タスキーギでアフリカ系アメリカ人で大工の父ジェイムズ・マコーリーと、教師の母・レオーナの間に生まれた。両親は間もなく離婚し農業を営む母と母方の祖父母のもとで弟・シルベスターとともに育ち、終生所属することになるアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会員となる。母・レオーナは11歳になるまでローザに教育を施したが、 1924年に州都モンゴメリーの女子職業学校に入学させた。1年後に閉鎖されたため他の中学やアラバマ州立黒人師範大学(現・アラバマ州立大学)付属の実験学校で教育を受け、16歳で縫製工場に就職した。その後、1932年黒人理容師のレイモンド・パークス(1903年~1977年)と結婚。結婚後、夫の奨めで高校生課程を修了している。レイモンドは全国有色人向上協会‎(NAACP)のメンバーでありローザも第二次世界大戦後、NAACPモンゴメリー支部の書記を勤めた。しかしそれは専業ではなく、収入を得るため何度も転職しさまざまな職業に就いている。1955年にはモンゴメリー・フェア百貨店で裁縫の仕事をしていた。当時、アメリカ南部諸州にはジム・クロウ法(Jim Crow laws)と呼ばれる人種分離法が施行され公共交通機関を除く日常生活のあらゆるところで黒人と白人は隔離されていた。制度上、バス・レストランなど公共の場所で人種隔離が実施され、また黒人の投票権も事実上制限されていた。深南部と呼ばれるアラバマ州も、その事情は同じだった。1955年12月1日18 時ごろ、当時42歳のローザは百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。バス内は白人席と黒人席に分けられ、中間の席には白人がいない時は黒人も座ってよいことになっていた。黒人席が一杯だったのでローザが中間席に座っていると白人が乗って来始め、立つ者も出てきた。このため運転手ジェイムズ・ブレイクが中間席に座っている黒人に立つよう命じる。坐っていた黒人4名中3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「何故立たない?」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否。1987年のテレビ番組でローザは、「着席したままだった私に気付いたブレイクが何故立たないかと訊ね、「立ちません」と答えました。するとブレイクは「よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ」と言ったので私は「どうぞ、そうなさい」と答えたんです」と述懐している。乗り合わせた乗客の証言によればローザは終始、静かで威厳に満ちた毅然たる態度を貫いたとされる。ブレイクは警察に通報しローザは市条例違反で逮捕された。ローザはのちに「どうして私が連行されるの?」と質問した時、警官が「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答したやりとりを明らかにしている。警察署での逮捕手続きが終わるといったんは市の拘置所に入れられたが即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。ローザ逮捕の知らせが伝わると、モンゴメリーのデクスター街バプテスト教会で牧師に着任したばかりで26歳のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアやラルフ・アバーナシー牧師らが抗議運動に立ち上がり、モンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけた。以前にも黒人がこのようなことで逮捕されていたが素行の悪い者が多く、運動としては盛り上がらなかった。ローザの場合はまともな職業婦人であり、NAACP書記でもあったから関係者が迅速に動いた。当時貧しい黒人にとってバスは必須の交通機関で利用者の75パーセント以上を占めていた黒人たちがバスを利用せず、黒人の車に同乗したりどこへ行くにも歩いたりしたためバス路線を運営するモンゴメリー市は経済的に大きな打撃を被った。ローザ側は市条例違反の判決に対しバス車内の人種分離の条例が違憲であるとして控訴、1956年11月に連邦最高裁判所は違憲判決を出し公共交通機関における人種差別を禁止することになる。ボイコット運動は381日間続き最高裁の違憲判決の翌日に収束。キング牧師はこの運動の勝利を契機として全米各地での公民権運動を指導、非暴力直接行動と市民的不服従をかかげ1963年8月28日、ワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催。アメリカの黒人運動は最高潮に達し、1964年の公民権法成立につながった。この一連の運動に対応して、当時のジョン・F・ケネディ政権は次々と南部諸州における差別制度を禁止する立法を行った。またケネディ政権を継承したリンドン・ジョンソン政権は「偉大な社会」の実現を唱え、積極的に黒人の社会的・経済的地位を向上させるためのアファーマティブ・アクション立法にまで進んでいる。ローザもキング牧師の公民権運動に参加し著名な活動家となるが、地元には居辛くなり1957年にデトロイト市に引っ越した。ローザはその後もさまざまな職業を転々としているが、やがて自分がアメリカ史上の人物として学校の教科書でも教えられていることに気付く。有名人として職業的な地位も向上し、1965年から1988年にかけてミシガン州選出民主党下院議員ジョン・コンヤーズのスタッフを勤めた。なおこの間、1977年に夫・レイモンドがデトロイトで亡くなっている。1987年にはローザ・レイモンド・パークス自己開発教育センターを創設して青少年の人権教育に尽力した。1999年にアメリカ連邦議会は、ローザに議会金メダルを贈った。これは最も偉大なアメリカ市民に贈られるメダルである。またアラバマ州モンゴメリーにはローザ博物館も設立された。2005年10月24日にデトロイトの自宅にて老衰で死去。92歳没。

ジム・クロウ法とは、人種分離(=人種差別)法の一般的な呼称です。この名称はミンストレル・ショー(白人が黒人に扮して歌うコメディ)の1828年のヒット曲、『ジャンプ・ジム・クロウ(Jump Jim Crow)』に由来しています。このような社会状況の中で、ローザの逮捕を知った社会運動家のエドガー・ニクソンは、モンゴメリーの教会に移ったばかりの若き牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに、バス乗車ボイコット運動の組織化を持ちかけました。これに多くの市民がこれに応じ、結果として市のバス事業は財政破綻の危機に瀕することとなり、1956年11月13日連邦最高裁判所は、モンゴメリーの人種隔離政策に対して違憲判決を下しました。フォーク歌手のピート・シーガーはモンゴメリー・バス・ボイコット事件と公民権運動に関して「バスの後部座席で(If You Missed Me At The Back Of The Bus)」という曲を発表しています。公民権運動の母ローザ・パークスが亡くなると、地元・デトロイトでは哀悼の意を表現、追悼するミュージシャンらのコンサートが相次ぎました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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