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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Hier steh ich an den Marken meiner Tage.

私の日の商標でここに立っています。

マレーネ・ディートリッヒの墓碑銘。マレーネ・ディートリッヒははドイツ出身の女優・歌手である。1920年代のヴァイマル共和国のドイツ映画全盛期に花開き、1930年代からはハリウッド映画に出演、1950年代以降は歌手としての活動が多かった。1901年に、ベルリンのプロイセン近衛警察士官の次女として生まれる。幼くして父が病死、継父も、第一次世界大戦で戦死。生活費を稼ぐため酒場などで歌っていた。また、フランス語を独学で取得。 18歳で国立ヴァイマール音楽学校に入学してバイオリニストを目指すが、手首を痛めて音楽家を断念。1921年にマックス・ラインハルトの演劇学校に入学、翌年には『ナポレオンの弟』で映画デビュー。1924年に、助監督のルドルフ・ジーバーと結婚。同年12月には娘マリアを出産後、ジーバーとは別居となる。夫はカトリックであり、離婚が認められていなかった。1930年、ベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められドイツ初のトーキー『嘆きの天使』に出演。退廃的な美貌、セクシーな歌声、その脚線美で国際的な名声を獲得した。同年、パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡りゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッド・デビュー、アカデミー主演女優賞にノミネートされた(『モロッコ』は日本語字幕映画の第1作である)。「上海特急」でスターの座を確立する。 ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビで黄金時代を築く。1935年の『西班牙狂想曲』がヒットしなかったのを最後にスタンバーグ監督との公私にわたる関係を解消、しばらく低迷する。当時のドイツの指導者であるアドルフ・ヒトラーはマレーネがお気に入りだったようでドイツに戻るように要請したが、ナチスを嫌ったマレーネはそれを断って1939年にはアメリカの市民権を取得したため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となる。1940年代からは西部劇やブロードウェイの舞台にも立って活躍した。また、占領下のフランスからジャン・ギャバンも渡米しており交際、やがて、自由フランス軍にジャンは志願したが、文通は続け、やがてアルジェリアで再会した。第二次世界大戦中の1943年からはUSO(前線兵士慰問機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り反ナチスの立場を明確にした。戦地で兵士が口ずさんでいた「リリー・マルレーン」をおぼえ、対独放送でも歌った。戦後、壊滅したベルリンで、奇跡的に母親と再会、その2か月後に、母は急死した。 戦後、その功績によりアメリカからは1947年に大統領自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与された。 なお、1944年にはバルジの戦い中のアルデンヌにおいてアメリカ軍の慰問を行った際に急襲してきたドイツ軍に捕えられそうになったが直前に回避し事なきを得た。 戦後、しばらくパリでジャンと暮らしたが次第に疎遠となり別れた。若い女優の登場で映画出演の機会は減ったが、ラスベガスでのリサイタル依頼があり、成功をおさめ1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。1958年からはバート・バカラックと組んでいる。1960年には念願の故郷ドイツでの公演を行った。マレーネは「裏切り者」と罵声を浴びせられながらも、暖かい歓待も受けるという彼女に対するドイツ人の複雑な感情を見せつけられた。1970年の大阪万博(EXPO'70)と1974年に来日して日本でもコンサートを行った。メリー・ホプキンの『悲しき天使』(Those Were the Days)という曲のヒットでも知られている。1976年ジャンと夫を立て続けに亡くした。1975年、コンサート中に足を骨折して活動を中止せざるをえなくなる。引退後はパリに隠棲。引退から時期がたってもファンレターは絶えず、『パリ市。マレーネ・ディートリヒ様』と書くだけで手紙が届いたと言う。引退後の姿はまったく謎に包まれており、人々の興味の対象となった。ドイツの大衆紙『ビルト』が、ある老女の写真を「現在のマレーネ・ディートリッヒだ」とスクープを出したことがあるが、彼女の親族によって否定された。1989年のベルリンの壁崩壊の際には、いつになく興奮していたという。1992年、パリで死去。死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。亡くなる前の12年間は寝たきりであったという。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、その後遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われた。その遺骸は同年、彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られた。死後、ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリッヒ広場」と命名された。2002年ベルリン名誉市民となった。

マレーネ・ディートリッヒは、世界で一番有名な女優の一人でしょう。彼女の本名はマリー・マグダレーネ・ディートリッヒ(Marie Magdalene Dietrich)ですが、彼女はファーストネームとミドルネームを合わせて1つとして現在良く知られている通称を自分で考案しました。第二次世界大戦開戦後アフリカ戦線で敵味方両軍の間で大ヒットした『リリー・マルレーン』は、ララ・アンデルセンが最初にリリースしたのですが、日本では殆どの人がマレーネのオリジナルと思っているほど彼女の者が有名です。彼女の出演した映画で一番有名なのは、ドイツ映画界最初のトーキー映画である『嘆きの天使』か、ハリウッド進出第一作である『モロッコ』でしょうか。彼女とコンビを組んでいたスタンバーグ監督は、独特の映像美の中に彼女ををいかに引き立たせることに専念しており、このような監督と女優との結びつきは当時は非常に珍しいことでした。しかしこの二人のスキャンダル化した愛も最後には破れ、『西班牙狂想曲』を最後にコンビは解消してしまいました。彼女の墓碑銘はドイツの劇作家であり詩人でもあるTheodor Körnerの"Abschied vom Leben"という詩の一節です。残念ながら私のつたないドイツ語では、上手く訳すことも解釈することもできません。この詩の全文を載せておきますので、この墓碑銘が彼女とどう関係するのか、分かる人がいましたら教えてください。

Abschied vom Leben

Die Wunde brennt - die bleichen Lippen beben -
ich fühl's an meines Herzens matterm Schlage,
hier steh ich an den Marken meiner Tage -
Gott, wie du willst! Dir hab ich mich ergeben. -

Viel gold'ne Bilder sah ich um mich schweben;
das schöne Traumbild wird zur Totenklage. -
Mut! Mut! - Was ich so treu im Herzen trage,
das muß ja doch dort ewig mit mir leben! -

Und was ich hier als Heiligtum erkannte,
wofür ich rasch und jugendlich entbrannte,
ob ich's nun Freiheit, ob ich's Liebe nannte:

Als lichten Seraph seh ich's vor mir stehen; -
und wie die Sinne langsam mir vergehen,
trägt mich ein Hauch zu morgenroten Höhen. -
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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