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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Oh wow. Oh wow. Oh wow.

スティーブ・ジョブズの最期の言葉。スティーブ・ジョブズは、アメリカ合衆国の実業家。スティーブ・ウォズニアック、ロン・ウェイン、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界初の成功を収めたアップル社の共同設立者の一人。また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続けた。1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅のガレージからスタートしたアップル社は、シリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時のあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いが社内を混乱させたとして、1985年にアップルから追放された。アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、ワークステーション「NeXTcube」とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却することで復帰、1997年には、暫定CEOとなる。その後、ライバルとされていたマイクロソフトとの資本連携に踏み切り、社内のリストラを進めてアップル社の業績を回復させた。2000年、正式にCEOに就任。 2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。暫定CEOに就任して以来、基本給与として、年1ドルしか受け取っていなかったことで有名であり(実質的には無給与であるが、この1ドルという額は居住地の州法により、社会保障を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安いCEO」とも呼ばれた。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。2011年10月5日、アップルはジョブズが死去したと発表した。別の報道では死因は膵癌に伴う呼吸停止と報道している。56歳没。 2012年2月11日、第54回グラミー賞で、特別功労賞の一つ「トラスティーズ賞」が授与された。

スティーブ・ジョブズはアップルコンピュータを設立した二人のスティーブの一人、人呼んでスティーブ・”わがまま”・ジョブズ。ジョブズは偉大な実業家ではありましたが、いわゆるハッカーと呼ばれる人間ではありませんでした。ジョブズは元々はヒッピーであり、大学時代はユダヤ・キリスト思想・坐禅・酒に心酔し、後にインドに旅行したり鈴木俊隆を導師としてサンフランシスコで禅を学んだりしています。コンピュータマニアの集まりであったホームブリュー・コンピュータ・クラブのメンバーであった、天才ハードウェア・ハッカーであるスティーブ・ウォズニアックの設計したApple Iを、二人は昼夜時間を惜しんで製造しました。ウォズニアックはアップル社の設立に弱腰だったのですが、ジョブズは「一度くらい失敗したっていい。それよりも、俺は一度会社を作ったことがあるんだぜといえることのほうが大切さ」といって口説き、ウォズニアックは務めていたヒューレット・パッカードを退社し、アップル社の業務に専念しました。1977年1月3日にアップルコンピュータが法人化すると、ウォズニアックはApple IIをほとんど独力で開発し、これは歴史上最も重要なコンピュータとなりました。Apple II はフロッピーディスクドライブを備えており、これは紙に穴をあけて記録を保存する「パンチカード」が一般的な時代にあって、非常に画期的なことでありApple IIが大成功する大きな要因となりました。1977年6月に発表されると、Apple IIは爆発的に売れ、1984年には設置ベースで200万台を超え、莫大な利益をアップルにもたらしました。1980年にはアップルはIPO(株式公開)を果たし、750万株を持っていたジョブズは、2億ドルを超える資産を手にしました。大成功を収めたジョブズでしたが、マーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られ、当時ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、18ヶ月に渡って引き抜き工作を行いました。この時スカリーを口説くために彼が述べた言葉である、「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかみたいか。」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world? )は有名です。ジョブズとスカリーは強力なパートナーシップのためにDynamic Duoと呼ばれ、アップルの経営を押し進めましたが、元よりジョブズは独断専行にすぎる人物であり、1984年後半にはジョブズが需要予測を大幅に誤り初めての赤字を計上したのをきっかけに、スカリーから会長職以外のすべての仕事を剥奪され、後に退職しました。アップル退職後はNEXTSTEPという新しいOSを作ったりしていましたが、1997年に低迷を続けていたアップルに復帰し、2000年には、CEOに就任しました。同年にiTunesとiPodによって音楽事業に参入し、音楽事業をパソコンと並ぶアップルの事業の柱にすると、2007年1月9日にはiPhoneを発表し、アップルはNewton撤退以来9年ぶりに携帯コンピュータ事業に復帰しました。iPhoneはスマートフォンを再定義する製品となり、ジョブズがCEOを退任する2011年までに、携帯電話事業はアップルの総売上高の5割を占めるまでに成長しました。ジョブズのわがままを示すエピソードには事欠きませんが、例えばジョブズがアタリの社員だった頃、ブロック崩しゲームの設計をウォズニアックに助けてもらって、ウォズニアックは4日間の徹夜して完成させました。。ジョブズは報酬の山分けするとして、700ドルのうち350ドルを小切手にしてウォズニアックに渡しましたが、実際にはジョブズはアタリから5000ドルを受け取っており、差額をオレゴン州の共同農場につぎ込んでいたことがばれて二人は喧嘩しました。(後にウォズニアックは、Apple IやIIを設計する際にこの設計が大変役に立ち、25セントしかもらえなくても引き受けただろう、と語っていますが)。要求する水準を満たさない者に対しては容赦なく罵声を浴びせ、その場で即クビにすることでも知られるなど、素行に問題のある人物ではありましたが、ともかく彼が非常に頑固な性格と斬新なアイデア、パワフルな行動力を備えた人物であったことは疑いのないことであり、2009年には、アメリカの経済誌『フォーチュン』から「過去10年間の最も優れた最高経営責任者」に選出されました。ジョブズの最期は、2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により、妻や親族に看取られながらパロアルトの自宅で死去しました。ジョブズの死に際し、バラク・オバマ大統領は次のようなコメントを発表しています。「スティーブは米国のイノベーターの中で最も偉大な一人でした。違う考えを持つことに勇敢で、世界を変えられるという信念に大胆で、そしてそれを成し遂げるための充分な能力がありました。この星で最も成功した会社の1つをガレージから作り上げることで、彼は米国の独創性の精神を実証した。スティーブは毎日が最後の日であるかのように生き、私たちの生活を変え、全産業を再定義し、私たち一人一人が世界を見る方法を変えました。」
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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