09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

宝剣を呑却して名弓を放下す 只斯の景のみ有り一陣の清風

宝剣を飲み込んで名弓を放り投げる ただその光景のみあって一陣の清らかな風が吹いている

天野隆良の辞世の句。天野隆良は安芸国国人天野氏の一族、戦国時代の武将で大内義隆の家臣。父は天野元貞、兄に天野隆重。養子に天野元祐。安芸国国人で金明山城を居城とした天野元貞の子として生まれた。周防国、長門国の大大名・大内義隆の近習として仕えたが、1551年の陶隆房の謀反では、近習の一人として、大内義隆の護衛を務めて山口を逃亡した。しかし長門国大寧寺で陶軍に包囲され、冷泉隆豊、黒川隆像、岡部隆景、大田隆通、岡屋隆秀、祢宜右延、小幡義実らとともに義隆自刃の時間を稼ぐために大軍相手に奮戦し、討死した (大寧寺の変)。天野隆良には男子はなかったが、後に隆良の主君に殉じた忠義を想った毛利元就の命によって兄の隆重の子、天野元祐が養子に入り、その家督を継いだ。

大寧寺の変は、1551年9月28日 - 9月30日にかけて起こった、周防山口の大名である大内義隆が家臣の陶隆房(晴賢)に自害させられた政変のことです。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化しました。大寧寺の変の実際の経緯は、隆房軍が最初に厳島の神領を接収し、本隊が徳地口から、別働隊が防府口から山口に侵攻しました。隆房勢は兵力10,000と言われますが、これに対して、義隆に味方したのは側近の冷泉隆豊くらいであり、兵力も2,000から3,000人ほどしか集まりませんでした。これは政務への関心を失った義隆が守護代に軍事を一任したため、彼らと任地における国人の癒着を強めさせ、かえって守護代の軍事力を増強させていたからです。このため、組織的な抵抗もほとんどできなかった義隆は、山口の大内氏館を放棄して長門に逃亡しますが、逃亡兵が相次ぐ中、海路から縁戚に当たる石見の吉見正頼を頼って脱出しようとしたところ、暴風雨のために逃れることができず、9月1日に義隆は長門深川の大寧寺で自害しました。天野隆良の最期は、主君に殉じて死ぬという立派なものでした。辞世の言葉は和歌ではありませんが、すべてを捨て去って死を覚悟したという、なかなか見事なものとなっています。『平家物語』では今井兼平は主君である木曾義仲が自害する時間を稼いだあと、義仲が討たれたと聞くとと、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害しましたが、天野隆良はこの話を念頭に置いて、最期の言葉を述べたのかもしれません。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/430-e762dcf2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。