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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Es lebe Deutschland. Es lebe Argentinien. Es lebe Österreich. Das sind die drei Länder, mit denen ich am engsten verbunden war. Ich werde sie nicht vergessen. Ich grüße meine Frau, meine Familie und meine Freunde. Ich hatte den Gesetzen des Krieges und meiner Fahne zu gehorchen. Ich bin bereit!

ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。覚悟はできています!

アドルフ・アイヒマンの最期の言葉。アドルフ・アイヒマン(1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。アドルフ・アイヒマンは1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンに生まれた。父はアドルフ・カール・アイヒマン。母はマリア・アイヒマン。アドルフは5人兄弟の長男。オーストリアにおける子供時代、アドルフはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った。当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた。1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党のうえ、親衛隊に入隊している(オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326)。アドルフ自身はイデオロギーにはさほど興味はなかったようだ。1934年9月、当時親衛隊伍長であったアイヒマンは、SDに応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用される。SDII/111課(フリーメーソン担当課)の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという。しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン親衛隊少尉が課長をしていたII/112課(ユダヤ人担当課)へ異動した。ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという。アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。1933年から1937年にかけて2万4000人の在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた。アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937年夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン(フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長)とともに英国委任統治領パレスチナに赴いたが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。そのため外遊の成果はほとんどなかった。しかもナチスの政策は後にユダヤ人国家の設立を妨げる方向で定められたので、結局、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いている。オーストリア併合後の1938年3月、当時親衛隊少尉だったアイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣された。ユダヤ人たちの亡命の代償は全財産であり、その所有物はすべて没収された。また移住者は「提示金」として不可欠な外国為替を、滅茶苦茶なレートで購入させられた。アイヒマンは移住政策を巨額のビジネスに仕立て上げたのだった。アイヒマンは1938年10月21日の報告書で着任の日から9月末までに5万人のユダヤ人をオーストリアから追放した、と報告している。同時期のドイツでは1万9000人であったからアイヒマンの成果は歴然であった。アイヒマンは親衛隊内でユダヤ人移住の権威として知られるようになり、ユダヤ人移住の「マイスター」などと呼ばれるようになった。ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦した後の1939年9月27日に保安警察(ゲシュタポ)とSDが統合されて国家保安本部が新設された。アイヒマンはそのIV局(ゲシュタポ局)B部(宗派部)4課(ユダヤ人課)の課長に任命され、ベルリン勤務となった。各地のユダヤ人移住局を統括する立場となった。1940年6月にフランスがドイツに降伏し、西部ヨーロッパはほぼドイツの支配領域となった。支配領域の拡大に伴い、ドイツの抱えるユダヤ人の数は大幅に増した。1940年6月の時点でドイツの支配領域にユダヤ人は325万人生活しており、彼らの追放先を探すことがドイツ政府にとって急務となった。アイヒマンは支配領域のユダヤ人をポーランドのゲットーへ集中させていった。本人の証言によるとアイヒマンは、1941年8月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという。さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ(後にここにトレブリンカ強制収容所が置かれる)でガス殺を行う建物を視察した。1942年3月から絶滅収容所への移送が始まったが、その移送プロジェクトの中枢こそがアドルフ・アイヒマンであった。総力戦体制が強まり、一台でも多くの車両を戦線に動員したい状況の中でも交通省と折衝して輸送列車を確保し、ユダヤ人の移送に努めた。続く2年間にアドルフは「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」と自慢するように、任務を着実に遂行した。アイヒマンの実績は注目され、1944年3月には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、捕虜収容所から脱出。1950年7月15日にアルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸した。その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていた。イスラエル諜報特務庁(モサッド)は2年に渡る入念な調査のすえ、モサッドはついにアイヒマンの居場所を見つけ出した。1960年5月11日、アイヒマンはバスから下車して自宅へ帰る道中拉致され、その後エル・アル航空のブリストル ブリタニアで、5月21日にイスラエルへ連れ去られた。アイヒマンの裁判は1961年4月11日にイスラエルのエルサレムで始まった。「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。証言にしばしば伴ったナチスによる残虐行為の記述はホロコーストの現実および、当時ドイツを率いていたナチスの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。一方で、自分の不利な証言を聞いている人物が小役人的な凡人であったことが、ふてぶてしい大悪人であると予想していた視聴者を戸惑わせた。裁判を通じてアイヒマンはナチスによるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残した。ソ連の指導者で数十万から数百万人とも言われる政敵を粛清したことで知られるヨシフ・スターリンも同じような言葉を残しているが実際にはこの言はスターリンではなく、ドイツの反戦作家のエーリッヒ・マリア・レマルクの言葉だった事が近年証明された。アイヒマンは死刑の判決を下されてもなお自らを無罪と抗議しておりその模様は記録映像にも残されている。1961年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑(イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑)の判決が下され、翌1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑が行われた。遺体は焼却され遺灰は地中海に撒かれている。

ハンナ・アーレントは1963年雑誌ザ・ニューヨーカーに、アドルフ・アイヒマンの裁判記録を連載しました。それが『イェルサレムのアイヒマン』です。上記のアイヒマンの最期の言葉は『イェルサレムのアイヒマン』が出典です。アーレントはこの本の中で、イスラエルは裁判権を持っているのか、アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか、裁判そのものに正当性はあったのか、などの疑問を投げ掛けたほか、アイヒマンを極悪人ではなく、ごく普通の小心者で取るに足らない役人に過ぎなかったと描いたので、ユダヤ人やイスラエルのシオニスト達に激しく非難されました。彼女を裏切り者扱いするユダヤ人やシオニスト達に対しアーレントは、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人である事に自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論しました。アイヒマンは自分は命令に従っただけで、自分がやらなければ他の誰かがやっていただろうとして、無罪を主張していました。「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」これはイスラエル警察の尋問に対するアイヒマンの答えです。一般市民を虐殺する命令に疑問を感じないか、というイスラエル警察の尋問には「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」と述べました。アイヒマンは殺されても仕方ないことをしただけに、この処刑が正しかったのかについては分かりませんが、アーレントのこの裁判の正当性へ疑問を読むと、「目的は手段を正当化しない」と「正義は結果ではなく過程に宿る」という二つの大原則について改めて考えさせられます。特にイスラエルがその後、他宗教や他民族に対して非常に厳しい政策を取ったことを考えると、正義とは何であるかということを定義することの難しさがわかります。もっとも大虐殺が悪いことであるということは、間違いのないことなのですが。さて、人間の心の闇について考えるために、アイヒマン裁判の翌年(1961年)に行われた、ミルグラム実験(アイヒマン実験)とそのバリエーションであるスタンフォード監獄実験についても紹介しておきましょう。ミルグラム実験は閉鎖的な環境下における、権威者の指示に従う人間の心理状況の実験で、イェール大学の心理学者スタンリー・ミルグラムによって行われました。この実験はまず実験協力者に、この実験が参加者を「生徒」役と「教師」役に分けて行う、学習における罰の効果を測定するものだと説明し、実験協力者(実はこの実験の真の被験者)かペアを組む別の実験協力者(実は役者が演じるサクラ)が、くじ引きで「教師」か「生徒」(あるいは「犠牲者」)役となるかを決めると告げますが、実はこのクジには二つとも「教師」と書かれており、被験者が確実に「教師役」をさせるようにします。被験者たちはあらかじめ「体験」として45ボルトの電気ショックを受け、「生徒」の受ける痛みを体験させられます。次に「教師」と「生徒」は別の部屋に分けられ、インターフォンを通じてお互いの声のみが聞こえる状況下に置かれます。そしてこの実験の肝とも言うべき部分は被験者には武器で脅されるといった物理的なプレッシャーや、家族が人質に取られているといった精神的なプレッシャーは全くないことです。「教師」はまず二つの対になる単語リストを読み、その後単語の一方のみを読み上げ、対応する単語を4択で質問します。「生徒」は4つのボタンのうち、答えの番号のボタンを押し、「生徒」が正解すると、「教師」は次の単語リストに移ります。「生徒」が間違えると、「教師」は「生徒」に電気ショックを流すよう指示を受けます。電圧は最初は45ボルトで、「生徒」が一問間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げていくよう指示されます。「教師」である被験者は「生徒」に電圧が付加されていると信じ込まされますが、実際には電圧は付加されていません。しかし各電圧の強さに応じて、あらかじめ録音された「『生徒』が苦痛を訴える声」がインターフォンから流され、電圧をあげるにつれて段々苦痛のアクションが大きくなっていきます。また電気ショックの機械の前面には、200ボルトのところに「非常に強い」、375ボルトのところに「危険」などと表示されおり、これは記録映像を見れば分かりますが、音声はまるで拷問を受けているかのような大絶叫で、生徒のアクションはショックを受けた途端大きくのけ反る等、一見してとても演技とは思えない迫力でした。被験者が実験の続行を拒否しようとする意思を示した場合には、白衣を着た権威のある博士らしき男が感情を全く乱さない超然とした態度で次のように通告します。
1、続行して ください。
2、この実験は、あなたに続行して いただかなくては。
3、あなたに続行して いただく事が絶対に必要なのです。
4、迷うことはありません、あなたは続けるべき です。
四度目の通告がなされた後も、依然として被験者が実験の中止を希望した場合、その時点で実験は中止されました。さもなくば、最大ボルト数として設定されていたXXXボルトの電圧が三度続けて流されるまで実験は続けられました。実験を行うにあたって、ミルグラムによりイェール大学で心理学専攻の四年生14人を対象に、実験結果を予想する事前アンケートが実施しましたが、回答者は全員、実際に最大の電圧を付加する者はごくわずか(平均1.2%)だろうと回答しました。また同様のアンケートを同僚たちにも内密で行ったところ、やはり一定以上の強い電圧を付加する被験者は非常に少ないだろうとの回答を得ました。この実験の実際の結果は、被験者40人中25人(統計上62.5%)が用意されていた最大V数である450ボルトまでもスイッチを入れた、というものでした。中には電圧を付加した後「生徒」の絶叫が響き渡ると、緊張の余り引きつった笑い声を出す者もいました。全ての被験者は途中で実験に疑問を抱き、中には135ボルトで実験の意図自体を疑いだした者もいましたし、何人かの被験者は実験の中止を希望して管理者に申し出て、「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいい」という意思を表明した者もいました。しかし、権威のある博士らしき男の強い進言によって、一切責任を負わないということを確認した上で実験を継続しており、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいませんでした。実験の成果は国内外において賞賛を与えられたが、同時に倫理性の観点と影響が過剰に喧伝されているとして批判の声もありました。1974年になってミルグラムは、その著書『権威に対する服従』(邦訳『服従の心理―アイヒマン実験』)を出版し、アメリカ科学振興協会から、服従についての社会的な考察の業績を理由にその年の社会心理学賞を受賞しました。スタンフォード監獄実験は1971年8月14日から1971年8月20日まで、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドーの指導の下に、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験です。被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせると、その結果時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明されました。具体的には次第に看守役は誰かに指示されるわけでもなく、自ら囚人役に罰則を与え始め、抗した囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便するように強制され、ついには禁止されていた暴力が開始されました。ジンバルドーは、それを止めずに続行しますが、実験に協力していた牧師が、この危険な状況を家族へ連絡し、家族達は弁護士を連れて中止を訴え協議の末、6日間で中止されました。しかし看守役は「話が違う」と続行を希望したそうです。後にジンバルドーは会見で、自分自身がその状況に飲まれてしまい、危険な状態であると認識できなかったと説明しました。人間の心の暗い部分がモロに出たこれら二つの実験ですが、強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり暴走してしまうという、まさにアイヒマンの心理を追証したような結果となりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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