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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Unter dem Druck der Kriegsereignisse zeigt sich, dass noch immer weite Kreise des deutschen Volkes und damit auch der Truppe vom jüdischen und demokratischen Gift der materialistischen Denkweise verseucht sind.

この戦争の結果という圧力により、ドイツ国民の多くやドイツ軍さえもが、物質万能主義に毒されたユダヤ人や民主主義の思想に穢されていたことが明らかになった

ヴァルター・モーデルの最後の訓戒。ヴァルター・モーデルは(1891年1月24日 - 1945年4月21日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中の陸軍元帥。ゲンティン(現ザクセン=アンハルト州)生まれ。1909年に士官候補生として入営。第一次世界大戦には西部戦線で第1軍傘下の第5師団の歩兵士官として従軍。1915年に速成の参謀教育を受け、中隊長として前線で重傷を負った後、陸軍最高司令部に転属となり、作戦課に配属される。1917年に大尉に昇進。翌年後備師団の次席参謀に転属となる。戦後も軍に残り、参謀将校、機関銃中隊長、戦術・戦史教官などを経験する。1929年、少佐に昇進し兵務局教育部に転属。1932年、中佐に昇進して翌年大隊長。1934年、大佐に昇進し第2歩兵連隊長。1935年、陸軍参謀本部技術部長。1938年、少将に昇進し第4軍団参謀長。第二次世界大戦が始まると、1939年のポーランド侵攻と翌1940年の西方電撃戦で第16軍参謀長を務めた。その後も第3装甲師団長、第41軍団長、第9軍司令官を務め、特に1941年からの独ソ戦では、1941年7月に騎士鉄十字章を受章、さらに1941年冬のモスクワ前面でのソ連軍の反撃に対し、就任した第9軍司令官として巧みな防衛戦で戦線を安定させ、ヒトラーの信を得た。この戦功により1942年2月に上級大将に昇進し、さらに立て続けに柏葉騎士鉄十字章、柏葉剣付騎士鉄十字章を授与された。その後も、第9軍司令官として、第二次ルジェフ会戦や、ルジェフ突出部からの撤退作戦など防衛戦に活躍し、「ヒトラーの火消し屋」の異名を得る。しかし、1943年7月のクルスクの戦いにおいては、彼の第9軍は北部からの主攻撃を担当したが、ソ連軍の堅固な守りによって大きな戦果を上げることはできなかった。この際、ヒトラーのもとで行われた5月の作戦会議において、参謀総長クルト・ツァイツラー、中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ、南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタインは作戦の即時実行を主張したのに対して、モーデルは自軍は準備不足であり、作戦開始は一ヶ月は延期すべきであるとの主張を押し通した。この結果、ソ連軍の防衛体制は更に増強され、作戦の失敗につながった。これについては、モーデルはもともと作戦自体に反対だったのであり、延期を繰り返すことによって作戦そのものを中止に持っていこうとしたとも言われている。その後、一時の休養をはさんで、1944年1月には、レニングラード地区でソ連軍の攻勢を受けていた北方軍集団の司令官に就任し、とりあえず戦線を安定させた。その後3月には、解任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタインの後任として北ウクライナ軍集団の司令官に就任し、同時に元帥に列せられた。6月にはソ連の大攻勢によって粉砕された中央軍集団の司令官を兼任し、かろうじて戦線を立て直すことに成功した。同年7月にヒトラー暗殺未遂事件が発生すると、ヒトラーに対し誓紙を差し出している。この事件の影響で、8月にギュンター・フォン・クルーゲの後任として西方軍総司令官およびB軍集団の司令官として西部戦線へ転任するが、ドイツ軍は連合国軍の急速な進撃によってファレーズ包囲戦で大打撃を受けるなど壊走状態となっており、状況はさすがのモーデルの手にも余った。この時モーデルは、ヒトラーから出されたパリ破壊命令を忠実に実行するよう、破壊命令に躊躇していたパリ防衛司令官のディートリヒ・フォン・コルティッツに命じている。9月初めにゲルト・フォン・ルントシュテットが西方軍総司令官に再任されると、モーデルはB軍集団司令官の専任となり、翌1945年4月までその職にあった。この間、9月の連合軍のマーケット・ガーデン作戦を失敗に終わらせたが、12月のバルジの戦いにおいては、自身は大規模な攻勢作戦はもはやドイツ軍の戦力では不可能として反対したものの、ヒトラーを翻意させることはできず、結局攻勢はミューズ川にも達することができず失敗に終わった。この頃からヒトラーの信任も次第に失われていった。ドイツの敗戦直前、B軍集団がルール地方で連合国軍に包囲されると、一般市民を含む「逃亡兵」や連合軍との停戦交渉を試みた者を、容赦なく即決裁判で処刑する指令を出すなど苛烈な抵抗を続け、アメリカ軍のマシュー・リッジウェイ少将による降伏勧告も拒絶した。連合軍の包囲網が狭まり壊滅が目前となると、指揮下の部隊に解散を命じた上で、「ドイツの元帥は降伏しないものだ」として連合軍の捕虜となることを潔しとせず、デュイスブルク近郊の森で拳銃を使って自決した。 ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相は、モーデルの軍集団をドイツ敗戦の責任者として非難する放送を行った。モーデルは自決の地に仮埋葬されていたが、1955年にフォセナックにあるドイツ軍人墓地に改葬されている。

モーデルはドイツ国防軍内では、もっともヒトラーに心酔していた人物と評された人物です。モーデルは軍人としては優秀な戦績を残しており、「ヒトラーの火消し屋」と呼ばれましたが、その他にも巧みな防戦指揮に因んだ「防御の職人」、部下に厳しい目標達成を命じたことから「スタハノフ(ソビエト連邦の炭鉱夫で、ソビエト連邦における生産性向上運動である「スタハノフ運動」のシンボルとなった)」、後方勤務者の中から前線勤務に耐えるものを常に選んでいたことから「恐怖の飛行者」といった、様々なあだ名を付けられました。また彼は強烈な自負心の持ち主でもあり、1942年の初頭における東部戦線の最初の冬期戦最中に、第9軍司令官として着任したとき、「どのくらいの増援を連れて来たのか?」という質問に対して「(増援は)私だ!」と答えました。独身の士官の受勲や昇進を嫌うという、奇癖の持ち主としても知られています。さてモーデルが指揮した戦いを全て書きつくすことはできないので、その中の印象的なものとしてノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)の主要な戦いである、ファレーズ・ポケット(ファレーズ包囲戦)を紹介しましょう。この戦いは進撃してきた西側連合軍に包囲されてしまったドイツ第7軍、第5装甲軍の両軍が、その包囲網から脱出する為の戦いであり、この戦いの結果連合軍はセーヌ川西岸にいたドイツ軍の大半を撃破し、パリは解放されました。この作戦が始まった時点で既にドイツ軍は消耗しており、ドイツ西方軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲはヒトラーの反撃命令に対し、反撃は不可能として命令を拒みました。抗命は認可されましたがクルーゲが連合軍に降伏すると考えたヒトラーは、クルーゲを西方軍司令官から更迭、ドイツ本国へ呼び戻しましたが、クルーゲは帰国途中に自決しました。その後任となったのがモーデルで、彼は赴任するとすぐに、第ⅡSS装甲軍団(4個装甲師団の残存部隊から形成されていた)はイギリス、カナダ両軍へ、第XLVII装甲軍団(2個装甲師団の残存部隊で形成されていた)が南のアメリカ軍へそれぞれ反撃させて、退却路を確保し、その上で第7軍と第5装甲軍の即時退却することを命令しました。この戦いにおける殊勲は、ポーランド侵攻から始まるナチスによる犯罪への怒りに燃えるポーランド軍でした。モーデルは包囲をこじ開けるために262高地を保持するポーランド部隊へ包囲網の外側から攻撃するよう第2SS装甲師団、第9SS装甲師団に命令し、ドイツ軍の強力な攻撃の前にポーランド部隊は孤立しましたが、それでも262高地を保持し、それらは「The Mace」と呼ばれました。三日間の戦闘で、226高地防衛のために常に戦い続けたポーランド第1機甲師団は戦死者325名、負傷者1,002名、行方不明者114名で戦力の20パーセントを損失しましたが、8月21日の夕方までに、カナダ第3、第4歩兵師団がサン・ ランベールとシャンボアから北へ抜ける道路を確保し、カナダ第4機甲師団の戦車がポーランド部隊と接触したことにより、ファレーズ・ポケットは完成しました。包囲内でドイツ軍が被った損害は歴史家ごとに諸説ありますが、80,000から100,000の将兵が閉じ込められ、その内、10,000から15,000が戦死、45,000 から50,000が捕虜となり、約20,000が脱出に成功したと言われています。ファレーズ・ポケットの戦いはドイツ軍の決定的な敗北で終わりましたが、この戦いはヒトラーの絶望的なぐらい楽観的な見通しのために安易に反撃が行われたこと、司令官へ細部までの命令を下したこと、部隊が全滅の危機に瀕したときに撤退を拒否したことなどにより、最初からドイツ軍に勝機は存在しませんでした。政治家が軍事作戦に過剰に口出しすると、とんでもないことになるという見本でしょう。モーデルの最期は 「生きて虜囚の辱を受けず」として自決するという、何となく日本の戦陣訓を思い出させるような死に方でした。ナチス政権下のドイツの軍人で、反ユダヤ主義・全体主義者は別に珍しいわけではないですが、最後の訓戒を見る限りどうも反省はしていなかったようです。とはいえモーデルが自決した後、彼の軍集団をドイツ敗戦の責任者として非難されたのですから、自分たちが正しいと信じ忠義を尽くしたとしても、負けてしまえばこんなものなのかもしれません。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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