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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

(トゥハチェフスキーの最期の言葉は何だったか? と聞いたスターリンにニコライ・エジョフが答えて。)

The snake said he was dedicated to the Motherland and Comrade Stalin. He asked for clemency. But it was obvious that he was not being straight, he hadn't laid down his arms.

蛇は母国及び同志スターリンに対して忠誠を尽くしたと言いました。彼は寛容な処置を求めました。しかし明らかに彼は正直ではありませんでした。彼は武器を捨てていませんでした。

ミハイル・トゥハチェフスキーの最期の言葉。ミハイル・トゥハチェフスキー(1893年2月16日 - 1937年6月11日)はソビエト連邦の軍人。ソ連邦元帥。赤軍の機械化を推進。数々の画期的戦術理論を編みだし、赤軍の至宝、あるいは赤いナポレオンと呼ばれた。とりわけ彼の「縦深戦術理論」はその後の軍事理論に大きな影響を与えた。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の1人。帝政ロシアの没落貴族の息子として、スモレンスク州のアレクサンドロフスコエ(サフォノヴォ近郊)に生まれた。生後まもなくトゥハチェフスキー家は経済的困窮のためモスクワ南東ヴォルガ川流域の都市ペンザへ移住し、ミハイルも同地の中学校に通った。1909年にはモスクワへ引っ越し、陸軍幼年学校へ入学。幼年学校を首席で卒業した後、アレクサンドルの士官学校へ入る。1914年7月、ロシア帝国陸軍少尉に任官して、「近衛セミョーノフ連隊」に配属され、この直後にはじまった第一次世界大戦に従軍。最初の6ヶ月間で6個の勲章を授与される活躍をして大尉まで昇進したが、1915年2月にロムツァ郊外でドイツ軍の捕虜となる。その後、五度にわたる脱走の試みのすえ、1917年8月に成功。パリとロンドンをへて晩秋にロシアへ帰国したが、すでにロシア国内では2月革命で帝政は崩壊し、アレクサンドル・ケレンスキーによる臨時政府が誕生していた。さらにそれも10月革命でレーニンらボリシェヴィキに倒される。こうした情勢の中、祖国の新しい権力に従うことを決めたトゥハチェフスキーは、1918年4月にボリシェヴィキ党と赤軍に入る。まともな軍事教養を持たない農民などの被支配階級がほとんどの赤軍では元帝政軍人が重用され、トゥハチェフスキーも中将・軍司令官の待遇で迎え入れられた。1918年6月には第一革命軍司令官としてヴォルガ川流域まで破竹の勢いで侵攻してきたチェコスロヴァキア軍と戦い、9月にはシビルスクを占領してレーニンから賞賛された。1919年3月、シベリア政府(白軍)のコルチャーク軍の進攻があった際には主力である第五軍司令官を任せられ、見事にコルチャーク軍を撃破。この功績で赤旗勲章を授与された。さらに1919年秋になると、今度はデニーキン将軍の軍勢が南方からモスクワに迫り、トゥハチェフスキーは南方方面軍司令官としてこれと相対し、優れた戦争指導で1920年3月までにデニーキン軍を総崩れにする。しかしそれも束の間で1920年4月に今度はポーランド軍(国境問題でロシアと対立していた)が内乱に付け込んでロシア領へ侵攻してくる。トゥハチェフスキーは西部方面軍司令官として参戦、「我々の銃剣で勤労人類に幸福と平和をもたらす。西欧へ」と世界革命の前哨戦と主張し兵士達を鼓舞しながら、この戦いもまたトゥハチェフスキー軍の活躍によりポーランド軍を敗退に追いやり6月には逆にロシア軍がポーランド領へと侵攻した。しかしこの時、トゥハチェフスキーは首都ワルシャワの攻略を試みて失敗。レーニンはこれを隣接の南西方面軍の協力がなかったためであるとし、その責任を南西方面軍軍事委員だったスターリン一人に押し付けたので(これによりスターリンは革命軍事会議議員を罷免される)、トゥハチェフスキーが罰せられることは無かった。しかしこれがスターリンのトゥハチェフスキーへの深い逆恨みの憎悪の発端となったという。その後、ポーランド軍はフランスの支援を受けて反転攻勢に転じ、トゥハチェフスキー率いるロシア軍は惨敗して命からがら帰国した。トゥハチェフスキー唯一の敗北の戦争であった(ポーランド・ソビエト戦争)。1921年3月にはクロンシュタットで水兵の反乱、5月にはタンボフ州での3万人の農民蜂起などがあったが、いずれもトゥハチェフスキーがこれを鎮圧。1924年にはレーニンが死去し、スターリンがその後継として独裁権力を掌握しはじめ、1925年にはスターリンの腹心のクリメント・ヴォロシーロフが陸海軍人民委員(のちの国防人民委員)になり、反スターリン的またはその見なされる将校たちが多数追放されはじめたが、内戦時代からの国家的英雄であるトゥハチェフスキーにはさすがのスターリンも手が出せず、1925年から1928年までの間、トゥハチェフスキーは赤軍参謀長に就任し、1931年からは陸海軍人民委員代理兼兵器局長に就任する。この間、赤軍再編成や機械化部隊・空挺部隊などの導入など、一貫して赤軍の機械化・近代化につとめ、その運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たした。こうした功績により、1934年からは共産党中央委員会委員候補に選出され、1935年にはヴォロシーロフら4名とともにソ連赤軍最初の元帥の一人となった。しかしスターリンは相変わらずポーランド・ソビエト戦争のときの逆恨みを持ち続け、またトゥハチェフスキーがソ連軍に多大な功績を残して国内外からスターリンを差し置いて脚光を浴びるのを見るたびにスターリンは自尊心を傷つけられ、自分の独裁者としての地位さえも脅かしかねないと危機感を抱くようになっていく。トゥハチェフスキーはスターリンにとってもっとも不愉快な人物となり、ついにスターリンはその抹殺を目論むようになる。1937年5月11日にトゥハチェフスキーは陸海軍人民委員代理の職を免ぜられ、ヴォルガ軍管区司令官に左遷されている。ナチス・ドイツの諜報機関SD(親衛隊情報部)司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合もっとも強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺する絶好のチャンスを見逃さず、ドイツ国防軍の将軍たちとトゥハチェフスキーとが接触していたという偽造文書の作成を1936年末ごろから開始していた。これをドイツからの攻撃を恐れて親ソになっていたチェコスロヴァキアのベネシュ大統領に怪しまれないように入手させ、ソ連のチェコ公使アレクサンドロフスキーを通じて1937年5月上旬から半ば頃にモスクワのスターリンに送られたという。この事実関係についてはほぼ間違いないとされている。しかしドイツ側のこうした工作の影響を過大評価はできず、ドイツ側がどう出ようがスターリンはトゥハチェフスキーの粛清を実行していたという説が根強い。いずれにせよスターリンはこれを口実にして、5月24日にソ連共産党政治局においてトゥハチェフスキーを「ドイツ参謀本部とゲシュタポのスパイ」とする決議を出し、1937年5月26日に彼を逮捕させた。トハチェフスキーは拷問にかけられ、自白を強要させられた。トゥハチェフスキーの調書にはその時の血痕が残されている[4]。6月11日にヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)・コルク二等軍司令官(フルンゼ陸軍大学校校長)・フェルトマン三等軍司令官(赤軍人事部長)・プリマコフ三等軍司令官(レニングラード軍管区副司令官)らと共に秘密軍法会議にかけて、即決で反逆罪により死刑判決を下し、判決のその日の内にモスクワのルビヤンカ刑務所で銃殺させた[5]。トゥハチェフスキーの家族(妻ニーナ、母マウラ、弟アレクサンドルとニコライ、4人の姉妹、娘2人)も「陰謀に加担した」と見なされ逮捕、強制収容所へ送られた。うち妻ニーナと弟のアレクサンドルとニコライの3人は銃殺に処された。母マウラと妹ソフィアは強制収容所内で死亡している。また12歳の末娘スベトラーナは自殺した。姉妹3人と娘1人が大粛清を生き延びた。以降、翌年までの間、いわゆる“赤軍大粛清”が吹き荒れて赤軍の旅団長以上の者の45%が殺され、赤軍は壊滅状態に達した。なおトゥハチェフスキー自身は、スターリンの死後、スターリン批判にともない名誉回復を受けた。1963年には、トゥハチェフスキーの肖像が描かれた切手がソ連で発行されている。

ミハイル・トゥハチェフスキーは「狡兎死して走狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵さる」(賢い兎が死ぬと猟犬は煮て食われ、飛ぶ鳥がいなくなると良い弓はしまわれてしまう)を体現した人でした。彼の軍人としての才能は、ロシア軍の長い長い栄光の歴史の中でも最高であったと言えるでしょう。通称「赤いナポレオン」。彼は空挺部隊が参加した戦術演習を行い、ロシア空挺軍の生みの親となり、ロケット兵器研究所の設立を積極的に支持するという先見の明を見せました。彼はロシア内戦史と軍事理論の多くの著作を残しましたが、最も有名なものはソ連軍の戦闘教義となった「縦深戦術理論」でしょう。縦深攻撃とは、陸上戦闘における攻撃の一種で、前線の敵部隊のみでなくその後方に展開する敵部隊までを連続的かつ同時的に目標として攻撃することで敵軍の防御を突破し、その後に敵軍を包囲殲滅しようとする理論です。圧倒的な戦力による縦長の隊形での連続的な攻撃と、長距離火砲や航空機による敵後方に対する攻撃し、空挺部隊などによる退路遮断を組み合わせて実施されます。1930年代にかけて第一次/第二次五カ年計画により赤軍の機械化が実現する中で、トゥハチェフスキーは地上軍の機械化とともに、世界に先駆けて空挺部隊の創設を進め、空地一体による大規模な機動演習を成功させました。1936年、トゥハチェフスキーの下で作成された『赤軍野外教令』が発布され、縦深戦略理論は完成しました。1944年に行われたバグラチオン作戦が、その集大成と評価されるています。縦深攻撃の最終的な目標は、包囲による敵軍の殲滅におかれることが基本であるので、同じ機甲戦の理論でも、迂回による戦略目標地点の奪取や破壊を主眼とするドイツ軍の電撃戦とは異なっています。トゥハチェフスキーは死刑判決間際にはスターリンを党と人民の敵として弾劾する剛毅さもありましたが、1921年のクロンシュタットにおける水兵の反乱(ソビエト体制に対し、民主化を要求)に対して容赦のない攻撃を加えて鎮圧したり、同年6月12日には、農民による反乱が起こっていたタンボフ州で毒ガス使用による反乱鎮圧を命令するというような冷酷なところもありました。また大粛清を生き延びたスターリンの側近モロトフは、スターリンの死後、大粛清に多くの冤罪があったことは認めましたが、トゥハチェフスキーについては冤罪ではないと主張し続けました。ナチス・ドイツ情報部SD司令官ラインハルト・ハイドリヒは、独ソ戦があった場合に最大の強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺するべく「ドイツ軍とトゥハチェフスキーが接触した」という偽造文書を作成し、モスクワのスターリンへ届くよう工作したという説がありますが、スターリン側がドイツがそういう行動に出るよう仕向けたともいわれ、真相は定かではありません。「ナチスのスパイ」として逮捕されたトゥハチェフスキーは、NKVDの取調官から調書に血の跡が残るほど激しい拷問を受け、スパイである事を自白せざるありませんでした。なんにせよロシア史上最高の将軍である彼が第二次世界大戦時に生きていれば、戦争はもっと早く終わり犠牲者はもっと少なくてすんだかもしれません。トゥハチェフスキーの最期の言葉を伝えたニコライ・エジョフは大粛清を実行した人で、天文学的な数の国民を虐殺しましたが、のちに自らも粛清対象にされて処刑されました。トゥハチェフスキーは裁判で罪名を聞く際に、裁判官の一人が「私は夢見ているのだと思う。」と呟いたのを聞きました。その軍法会議で裁判官を努めたうちの五人は、後に処刑されました。全体主義やスターリン主義への痛烈な批判を寓話的に描いた、ジョージ・オーウェルの『動物農場』に出てくる最後は売られてしまう働き者の雄馬ボクサーのモデルはトゥハチェフスキーであるとされています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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