07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

I have loved my German people and my fatherland with a warm heart. I have done my duty by the laws of my people and I am sorry this time my people were led by men who were not soldiers and that crimes were committed of which I had no knowledge. Germany, good luck.

私は私の国民と私の祖国に、熱い心をもって仕えました。私は私の義務を、祖国の法律に従って果たしました。困難な時代に我が国民がもっぱら軍人的な人たちに率いられなかったことを私は残念に思います。犯罪が行われた事も残念ですが、私はそれに何の関わりもありません。ドイツよ、健やかに。

エルンスト・カルテンブルンナーの最期の言葉。エルンスト・カルテンブルンナー(1903年10月4日 - 1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツの法律家、政治家。親衛隊の幹部。オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)を経て、ラインハルト・ハイドリヒの死後の1943年にRSHA長官となり、ヨーロッパにおいてユダヤ人の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦後にニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。最終階級は親衛隊大将、武装親衛隊大将及び警察大将。1903年、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州の工業都市リート・イム・インクライスに生まれる。7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学。ギムナジウム在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的なブルシェンシャフト「ホーエンスタウフェン」に加入している。1928年に国粋主義的体操クラブ、1929年に護国団の準軍事活動に参加した。1933年にドイツでナチ党が政権を取ると、オーストリアでもナチ党の活動が活発となり、政府の警戒心が高まり、1933年6月にエンゲルベルト・ドルフース首相によってオーストリアナチ党は禁止された。ドルフースはナチ党員を逮捕して強制収容所へ入れた。カルテンブルンナーは1934年1月14日にはエリーザベト・エーデルと結婚したが、この翌日にナチ党員として逮捕され、カイザーシュタインブルッフ収容所に収容された。同年4月まで収容されていた。1938年3月13日のオーストリア併合後もオストマルク州国家代理官となったザイス=インクヴァルトのもとで1938年8月までオストマルク保安担当国務長官を引き続き務めた。ヒムラーの命令でリンツの東方約20キロの場所に作られたマウトハウゼン強制収容所の創設に関与した。またオーストリアのゲシュタポ組織の創設にも関与した。1939年1月にはドイツ国会の国会議員となる。1942年6月4日に国家保安本部(RSHA)長官ラインハルト・ハイドリヒがチェコ人工作員の襲撃で負った傷が原因で死去した。その後、ハインリヒ・ヒムラーが国家保安本部長官を兼務していたが(国家保安本部長官代理にブルーノ・シュトレッケンバッハが任じられていた)、1942年12月10日にヒムラーはヒトラーの同意を得て、カルテンブルンナーを後任の国家保安本部長官に内定した。1943年1月30日にカルテンブルンナーは国家保安本部長官に任命された。1月31日にヒトラーがカルテンブルンナーの国家保安本部長官任命を発表した。これによって彼はゲシュタポ、刑事警察、親衛隊情報部(SD)、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害したアインザッツグルッペンなどの責任者となった。人種再定住計画や「ユダヤ人問題の最終的解決」の執行者となった。カルテンブルンナーの督励により、ヨーロッパ中でユダヤ人狩りが組織的に実行され、数百万人が抹殺された。しかし基本的にはカルテンブルンナーはヒムラーとハイドリヒがすでに敷いた路線を継承したにすぎなかった。カルテンブルンナーがこれまでの路線に変更を施したところといえば、1943年春と夏にこれまで絶滅政策の対象外となっていたテレージエンシュタット・ゲットーの「特権的ドイツ系ユダヤ人」たちも絶滅過程に組み入れることを決定したことがある。カルテンブルンナーは1945年3月半ばと4月半ばに独断で単独講和を企て、SD将校ヴィルヘルム・ヘットル親衛隊少佐をスイスへ派遣してアメリカの情報機関OSS(CIAの前身)のヨーロッパ代表アレン・ウェルシュ・ダレスと交渉させるなどしている。しかし交渉は失敗に終わった。敗戦も間近になった1945年4月19日にカルテンブルンナーは側近とともにベルリンを離れ、ザルツブルクへ自らの司令部を映した。「アルプス国家要塞」に立て籠もり、ここで最後まで抵抗を支援するはずだった。多くのナチ党高官が強奪した貴重品を持ち込み戦後に備えた。5月1日にはアルトハウスゼーへ移った。アドルフ・アイヒマンがアルトアウスゼーにユダヤ人移送の報告に現れたが、カルテンブルンナーはもはや何の関心も示さなかった。1945年5月11日にアメリカ陸軍CIC(en)対情報部がカルテンブルンナーの身柄を拘束した。1945年9月に国際軍事裁判が開かれることとなったニュルンベルクの刑務所に送られた。国際軍事裁判で彼は米軍による不当な待遇について述べ、うちひしがれた様子だった。起訴状についてコメントを書くことを求められると「いかなる戦争犯罪についても私は無罪だと思っています。私は諜報員としての任務を果たしただけです。ヒムラーの代役を務めることは拒否します。」と書いた。裁判が始まると彼はいかなる手段を用いてでも死刑を避けようとするようになった。自分を弁護する法廷戦術として彼が用いたのは、ゲシュタポをはじめとする彼の指揮下にある機関が重大な犯罪を犯したことを認めつつ、彼自身はその犯罪へいかなる関与もしていないと主張することだった。彼は、自分が実行犯というよりはただそのような機密業務について、ある種の名目的代表を務めただけだと主張し、実際には諜報活動以外には一切携わっていないと主張した。犯罪は自分が国家保安本部に関わりあいになる以前に行われた行動の結果だと主張した。必要とあらば検察が提示した文書の自分のサインを否認しさえした。1946年10月1日、被告人全員に判決が言い渡された。個別に言い渡される量刑判決で彼は絞首刑判決を受けた。カルテンブルンナーはヨアヒム・フォン・リッベントロップとヴィルヘルム・カイテルに次いで三番目に刑執行を受けた。

カルテンブルンナーが責任者となったアインザッツグルッペンとは、ナチス・ドイツの保安警察 (SiPo) と保安部 (SD) がドイツ国防軍の前線の後方で「敵性分子」(特にユダヤ人)を銃殺もしくはガス殺するために組織した部隊のことです。ナチス・ドイツの保安警察及びSD長官(のち国家保安本部(RSHA)長官)ラインハルト・ハイドリヒにより創設され、ポーランド侵攻以前の銃殺活動は主に知識人・聖職者・政治家など指導層を対象としました。対して独ソ戦におけるアインザッツグルッペンは、ユダヤ人やロマ、共産党幹部などを対象に銃殺を行いました。都市が陥落するとアインザッツグルッペンはその都市の「敵性分子」を集め、森や野原に追いたて、そこで銃殺して遺体を壕に埋めました。アインザッツグルッペンの虐殺行動は一面ではパルチザン(民間人に成り済まして攻撃を行うゲリラ)の掃討という意味も持っていましたが、各隊隊長たちの殺害報告書には「ユダヤ人」などと人種の項目も独立して記載されていたため、単なるゲリラ掃討部隊とは認められていません。またパルチザンと何の関係もない民間人も大勢「パルチザン」ないし「共産主義者」と勝手な認定を受けて虐殺されています。1947年9月29日から1948年4月10日にかけてニュルンベルク継続裁判の8つ目の裁判として、戦時中にユダヤ人や民間人への虐殺をおこなったアインザッツグルッペンの指揮官を被告人としたアインザッツグルッペン裁判が行われました。カルテンブルンナーはヒムラーに次ぐ親衛隊の最高幹部であり、ユダヤ人虐殺の執行者でした。もとよりこうなってしまうのは、当然の報いであると言えるでしょう。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/457-cb8c5b24
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。