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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

(死刑執行人のジョン・C・ウッズ軍曹に向かって)
The Bolsheviks will hang you one day!
今にボリシェヴィキがお前等を殺しに来るぞ!
(ウッズによって顔にマスクをかけられた後)
Adele, meine liebe Frau!
アデーレ、愛する妻よ!

ユリウス・シュトライヒャーの最期の言葉。ユリウス・シュトライヒャー(1885年2月12日 – 1946年10月16日)は国家社会主義ドイツ労働者党に所属していたドイツの政治家。反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Stürmer)』の発行人。1885年、ドイツ帝国領邦バイエルン王国南部のフラインハウゼンに生まれる。一次大戦時は陸軍に従軍。戦功をたてて一級鉄十字章を授与され、少尉まで昇進した。戦後、反ユダヤ主義団体に次々と参加した。反ユダヤ主義政党ドイツ社会主義党に入党したが、シュトライヒャーの粗暴な反ユダヤ主義宣伝は同党の指導者たちにも不快感を持たせ、いざこざを起こすようになった。シュトライヒャーは1921年に部下たちを引き連れて同党を離党することとなった。1922年10月にミュンヘンでアドルフ・ヒトラーの演説を聞いたシュトライヒャーはヒトラーの虜となった。シュトライヒャーはその場で聴衆をかき分けて進み、「自分の党に属する2000人の党員を贈り物として捧げたい」とヒトラーに申し出たといわれる。部下たちとともにナチ党に入党したシュトライヒャーは、ニュルンベルクに最初のナチ党支部を創設、同支部の支部長に就任した。さらにシュトライヒャーのイニシアチブの下にフランケン地方の町々に13のナチ党支部が創設されていった。ヒトラーへの強い忠誠心と北バイエルンの党建設の功績でヒトラーはシュトライヒャーに多大な信任を寄せていた。彼は北バイエルンにおけるヒトラーの総統代理に任じられていた。1923年5月には悪名高い反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Stürmer)』(突撃兵の意)を創刊している。『シュテュルマー』は著名な歴史学者であったハインリッヒ・フォン・トライチケの言葉「ユダヤ人は我々ドイツ人の災いである」を毎号各ページの下段に掲げるほか、読者の感情を逆なでするような過激な見出しを用いて、たとえば猟奇的な性的犯罪などをでっちあげて掲載し、ユダヤ人を誹謗中傷した。あまりに下品で俗悪な内容に他の党幹部や国防軍の将校達、ナチス支持者の財界人などからさえ批判の声が上がっていた。戦時中の連合国のプロパガンダにも『シュテュルマー』紙はナチの悪徳ぶりを示す証拠として盛んに利用された。『シュテュルマー』の発行部数は1923年には2500部だったが、1935年には6万5000部になり、1937年には50万部に達している。1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、一揆は失敗。シュトライヒャーも拘留され、ニュルンベルク市から教職の停職処分を受けた。しかしすぐに釈放され、政治活動を再開した。ヒトラーの代理アルフレート・ローゼンベルクによって設立されたナチ党の偽装組織「大ドイツ民族共同体」に参加。まもなくヘルマン・エッサーとともに同組織の指導者となった。ヒトラーが出獄し、1925年2月にナチ党を再建すると直ちに参加して再びヒトラーの指揮に服した。1925年にヒトラーから「ニュルンベルク=フュルト」大管区指導者に任じられた。さらに1929年からはそれが拡張された「フランケン」大管区の指導者に就任した。また1929年にはバイエルン州議会議員選挙に当選している。ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスの指示の下、選挙戦でナチ党が政権を掌握できるようフランケン地方における宣伝に全力を尽くした。しかし彼が一番激しく行ったのはやはり反ユダヤ主義だった。『シュテュルマー』紙面やビラや演説で反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論を展開した。シュトライヒャーの党指導や扇動のせいでニュルンベルクのナチ党事務所はドイツでも有数の暴力的反ユダヤ主義の拠点と化した。シュトライヒャーは、ヘルマン・ゲーリング夫人のエミー・ゲーリングがユダヤ人と交友関係がある事を知るや彼女を攻撃し、彼女がユダヤ人の店で商品を買った写真を『シュテュルマー』に掲載した。ゲーリングは、以前から『シュテュルマー』の扇情的な反ユダヤ主義の論調に反感を抱き「そのうちの二・三号しか読んでいないが、部下に運転手・使用人には読ませない様にさせてる。全くもって不愉快千万な新聞だ」とまで言い切っていたが、ここに至って大管区指導者6名からなる査問委員会を設置してシュトライヒャーを捜査させた。彼の関わっていた不正行為が次々と発覚し、査問委員会は「シュトライヒャーは人間の指導者として不適格」との結論を下した。ついにヒトラーにも見捨てられ、フランケン大管区指導者を罷免されたのであった。大管区職辞任以降にはニュルンベルクに近いプライカーショフの酪農場で暮らし、その経営にあたっていた。彼は20歳以上年下のアデーレ・タッペというブロンドの女性と結婚した。敗戦後の1945年5月23日、ザイラーと名乗って画家としてベルヒテスガーデン近くの村で潜伏生活をしていたところを、アメリカ軍空挺第101師団に発見されて逮捕された。シュトライヒャーがニュルンベルク裁判の際に弁護士に訴えたところによると、シュトライヒャーは拘禁中にユダヤ人と黒人によって拷問されたという。なおシュトライヒャー所有のプライカーショフの農場はアメリカ政府の決定によりユダヤ人難民たちに譲られている。ニュルンベルク刑務所に収監されていた際にも、性懲りもなくユダヤ陰謀論を唱え続け、看守のみならず他の被告人達からも忌み嫌われた。法廷でシュトライヒャーの隣に座っていたヴァルター・フンクが「私はもう十分に罰せられていますよ…。なにしろ毎日隣に座らされるのですから…。」と嘆くくらいだった。一方、シュトライヒャーは自分が他の被告からのけ者にされているのはゲーリングのせいだと思い込んでいた。シュトライヒャーの弁護人は彼が精神障害者であるとして精神鑑定を依頼した。精神分析医チームはシュトライヒャーをユダヤ人に対してのみ強迫観念を持つ偏執狂であると結論した。ただし精神そのものは正常と鑑定され、裁判から下りることは認められなかった。1946年10月1日、他の被告人達とともに裁判長ジェフリー・ローレンス卿により判決が言い渡された。まず被告人達が全員そろう中で一人ずつ判決文が読み上げられた。シュトライヒャーは携帯食をかじりながら判決を聞いていた。ジェフリー卿により読み上げられたシュトライヒャーの判決文は「ドイツ人の思想を反ユダヤ主義という病毒で汚染し、ドイツ人のユダヤ人に対する迫害を刺激した。」「東ヨーロッパでユダヤ人が最も苛烈な環境の中で殺戮されている時、その虐殺・抹殺を教唆扇動したことは、政治的および人種的迫害にあたる」として、彼を「人道に対する罪」で有罪とした。さらにその後に個別に受けた量刑判決では、シュトライヒャーは絞首刑を宣告された。彼は判決について、「ユダヤ人の勝利」とコメントし、さらにニュルンベルク裁判そのものを「プーリームの祭り(ユダヤ人の例祭)」と表現した。

シュトライヒャーはナチスに入党する前から反ユダヤ主義団体所属していた、筋金入りの反ユダヤ主義者です。反ユダヤ主義はナチスの専売ではなく、ヨーロッパでは古くからありました。ナチスのユダヤ人排斥に最も影響を与えた本として、『シオン賢者の議定書』を紹介しておきましょう。この本は結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから、「史上最悪の偽書」とも呼ばれています。内容をごく簡単に説明すると、1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっており、ロシアで世界征服を企だてたユダヤ人の計画書として広まりました。制作者はロシア秘密警察とほぼ推定されており、これは、当時ロシア民衆が持っていた不満をロシア皇帝からユダヤ人にそらす意図で作成された本と考えられています。この本に書かれていることは今読めばとんでもないことばかりですが、当時はは多くの人を引きつけ、アメリカではヘンリー・フォードが、ドイツではヒトラーが熱狂的な信奉者となりました。ヒトラーはこの本が偽書であることを指摘されても「偽書かも知れないが、内容は本当だ」と擁護し、自らの反ユダヤ的態度を改めませんでした。日本では1986年に宇野正美が『ユダヤが解ると世界が見えてくる』という本を出版し一大ブームとなりました。その後この本のオカルト的要素に惹かれた人たちが延々と類書の出版し、まさしく噴飯もののユダヤ陰謀説が氾濫することになりました。シュトライヒャーは反ユダヤ主義を当時のドイツに根付かせた、最大の責任者の一人ですが、職業軍人ではなく党幹部の中でも軍事的決定からは遠ざけられていたため、ポーランド侵攻・ソ連侵攻などを含めて一切の軍事行動の計画に関与していませんでした。また、ユダヤ人に対するホロコーストを直接指示したり、その具体的計画の立案に関わったこともありません。つまりシュトライヒャーには、反ユダヤ主義に対する道義的な責任しかないので、今もなおその種の扇動行為のみを具体的罪状として、死刑判決を下すことが正当・妥当であったかどうかといった点に関する議論があります。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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